1953年高校生東京へ その4


先回からジャスト1か月経過してしまい、完全に気が抜けた発泡酒みたいだが4回目を。同行者は上野に着いたとたん、上野駅の後架(WC)で用心金ン千円を落としてしまい、意気阻喪してそのまま京都に帰ったので、撮影行は芳紀16歳半の小生1人である。


ED101 横須賀

このとき今少し知識や先達があって、電気機関車や電車なんぞ見向きもせず、小湊、九十九里、日本ニッケル、常総筑波、鹿島参宮鉄道などに行っていたら、と今になって悔しい次第である。このときの写真は従前殆どプリントさえしておらず、今回デジタルで自分自身が初めて見た!というものが少なくない。自分で言うのも恥ずかしいぐらい、本当に詰まらないものばかりで、要は早い時点で、それは自覚反省していたのだろう(そんなものをわざわざ他人に見せるな、という手合いが必ず居るだろうが)。

だが、そこが老人の厚顔無恥なところで、だれがどうい無理やり「ご高覧」に供する。行動範囲は情報不足でせいぜい横須賀、久里浜程度である。


ED1727 新宿

EF108 横須賀

EF506 東京

EF567 東京
EF5830 東京 先台車が鋳鋼製 後ろに暖房車を従えている

US ARMY 8585 (米軍貸与) 品川

このGE製電気式ディーゼル機関車は、米軍が占領各地に持ち込んだ規格機で、以前「おじん2人」シリーズのギリシャ編でご覧頂いた1D1マッカーサー蒸機(メーターゲージ)などと同様で、同系メーターゲージ機はフランス等欧州にも持ち込まれた。鉄道へのディーゼル燃料の割当がない時期(要するに敗戦―占領初期)から国鉄に貸与され、米軍関連物資や石油関連入換等に従事していた。関西では鷹取にも居り、海岸の石油基地までの貨物線(市電と平面クロスがあり、鷹取から南に分岐する区間は道路で残り、カーブが名残である)に働いていた。のちDD12になったのは周知で、確か廃車後名古屋鉄道が何両か購入したと記憶するが。優秀な機関車だったようだ。


B206 横須賀 多分米軍関連輸送用であろう


旧海軍5号機 久里浜

旧海軍2号機 久里浜

旧海軍施設部の建設用蒸機だが、敗戦後米軍の命令で旧軍、軍需工場等の施設が賠償物件に指定され、大蔵省管理となった。これらの解除は概ね1954年頃で、各地にかような放棄同然の車輌が存在した。2号は早い時点の本江機械=立山重工業製であることが、米国風サンドボックスで分かるが、5号のメーカーは不詳。一見日立風だが、どこか零細メーカーかもしれない。

5 thoughts on “1953年高校生東京へ その4

  1.  16才で結果的に個人撮影旅行。あの時代によく写真機持って行かれたと思います。小生等団塊世代の1~2年前の終戦直後生まれ(米手作市さんもこの時代です)でも中学校の修学旅行で東京に行くと言うことで餞別をもらった人がかなりいたことを覚えています。昭和35年6月修学旅行専用電車155系「希望」号でした。岸首相退陣要求、安保闘争で樺美智子さんと言う東大生が亡くなった時です。予定していた国会議事堂の見学が中止になりました。湯口さんの今回の撮影行はそれよりも7~8年も前のことですね。ご趣味の内容からもっとローカル私鉄や軽便を撮るべきだったという話、生意気言うようですがよくわかるような気がします。ジャンルは違いますが「あれ撮っとくべきやった」は何歳になっても同じですね。小生の時代はC59等の大型蒸機がC60への改造や山陽九州東北に追いやられ、軸重等の関係で他線転属が出来ず、毎号のピクに廃車が報じられていました。C51、D50も老朽で同様な道を辿り、必死になって追っかけました。もっと早く生まれておればと大いに悔やみました。これは、多分若い人も同じだと思います。昭和40年台前半のローカル私鉄は全て国鉄蒸機撮影の合間にホームの先端にでもいれば撮った位でした。悔やんでみても後の祭りです。総本家さんからも同じ様なことを聞いたことがあります。
    さて、あの時代から推察させていただくと電機の多くは東京に行かないと見られないということで、特に輸入電機などはそうであったと思います。小生は湯口さんから10年遅れて出生しましたが、今回ご発表の片鱗と言いましょうか、末期的姿をとらえた機種もあります。英国製ED17は身延線、中央線で、EF56はつい最近まで東北本線(JR宇都宮線)で撮影できました。しかし、さすがにEF50は見たこともないものです。戦後生まれのEF58のデッキ付きも注文流れか何かのEF18の姿で豊橋あたりで見たくらいです。B20は鹿児島の庫で見ました。米軍の8585や旧海軍の久里浜のタンクロコなどは手に負えない世界です。久里浜と言えば国府津機関区久里浜支区と言っていたと思いますが、小生はED17等がいなくなった後の訪問でした。丁度京浜地区のDD13による無煙化で浜川崎や茅ヶ崎のC11がずらりと並んで雨ざらしでした。電気暖房の電機が増え、職を失ったマヌとかホヌとか記した暖房車の廃車体がごろごろしていました。横須賀線のEF11は間に合いました。昭和40年のことです。今のようにホームには罵声が飛び交うほど鉄道ファンが居る時代と異なり、写真機を持っている人自体が少ない時代で、フィルムも高価で貴重であったと思います。どうぞ、今後もご発表いただければ嬉しく思います。最後に後架がトイレとは始めて知りました。中国語の洗手間の方が意味がわかるのですが、後架はどういうことからそうなったのでしょうか。辞書を見ると禅宗で洗面所とありますが2字の漢字からは想像がつかないです。

  2. 思い出しましたぞ、あの頃のことを。
    準特急氏の言うように、あの頃は(特に京都では)旅行に行くと言えばご近所から「お餞別」をいただく風習がありました。それは子供の修学旅行でも同じ事で、隣や向のおばさんがポチ袋に入れた50円や100円をくれたようです。
    「ようです」と書いたのには訳があります。
    我が家は昭和20年3月14日の大阪大空襲で千日前にあった家が焼かれて八尾に疎開して終戦を迎え、その後京都へ引っ越してきましたからこの地では「よそ者」今風に言えばニューカマーでした。そんな我が家には餞別をくれるご近所はなく、修学旅行に行った伊勢の土産物店で初めて知った風習でした。
    小さい身体に「赤福餅」や「生姜糖」をいっぱい持っている友達から近所へのお返しやと聞かされたときは何の意味か分かりませんでした。
    結局、その後も「餞別」をあげることももらうこともない人生を過ごしてきています。

  3. 「赤福餅」や「生姜糖」、懐かしいですね。白とかピンク色の例の甘い奴。当時は所持金の制限がありましたが、餞別のお返しで制限以上に購入する者も結構居ました。赤福は内のが好きでして、あの事件後も名物として健在なので今でも名古屋駅の売店で買います。小生の修学旅行は兵庫県の小学校でしたが、伊勢でした。その時の車内スナップを近鉄特急の著者Tさんに鑑定してもらったところ2200(旧)と言うことでした。京都の方はよく伊勢への修学旅行は国鉄の鳥羽快速と聞いておりますが、大阪、兵庫は近鉄利用が多かったのでしょうか。因みに関東の小学校は日光が多いようで、東武、国鉄、バスなど利用手段は様々です。長野県松本の友人に訊くと修学旅行は名古屋の東山動物園であったとのことでした。

  4. 今回「あ、なるほど」と思ったのは、輸入電気機関車が東京都心でこの頃まで
    見られた最後の機会に遭遇されていることです。

    昭和20年代後半から30年初にかかるころのTMSの制作記事やスタイルブック
    (当初は年刊で僕はかなりの号を所有しています)をみると題材に輸入電機が今より
    ずっと多く取り上げられ、ED17とくに1727号のような知る人ぞ知るような機関車が
    でる理由が今ひとつピンと分かりませんでした。

    この時点では、マニアの気を引く絶滅危惧種的な最後の奮闘中の姿が、しかも
    新宿などで見られたということですね。
    それは「模型心」をくすぐることでしょう。

    僕は生まれも遅く、ずっと後世になって古いTMSの記事を読んで古き良き時代に
    憧れを募らせた人間ですが、それでも35年くらい前に読んだTMS記事への感興を
    久しぶりに甦らせました。

    鉄道趣味にとり、もっとあってもいいのはこの「あこがれ」や「憧憬」では
    ないのか。
    1枚のED27の写真からそんな思いを巡らせました。

  5. はじめまして、私はブログにて横須賀周辺の歴史ネタなどを細々と書いているacjという者です。
    今回記事作成の下調べのため、Googleで検索を行っていたら偶然こちらへ辿りついたのですが、1953年・横須賀駅・国鉄B20形蒸気機関車・6号車と、こちらの掲示板で公開されている206号の写真と全く同じ画像を当ブログでも扱っており、その偶然に驚きコメント記入&リンクさせて頂きました。 リンク先で当方の画像を見て頂ければわかりますが、車体の傷まで一致してるため、ほとんど同じ時期に撮影されたのだと思います。

    いや、まったくの偶然の一致でしょうが、検索して画像が出てきた時は本当に驚きました。

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