東京を終えて、夜行(当然各停)で豊橋へ。天気が悪く、駅前で豊橋交通の2軸単車を2枚だけ撮る。
次いで飯田線の電車を。この時点戦時中の買収電車は社番のままだったから、モハ36とは豊川鉄道30型で日車製。同系の電車=川崎製=は多く、関西なら奈良電気鉄道の1000型、阪急600型もそうだ。
モハ36+クハ38099+モハ32004 豊橋
クハニ56004+モハ32040+サハ77017+モハ32
実は飯田線を全線乗車し、辰野、塩尻経由中央本線で名古屋に戻ったのだが、天気が極度に悪く写真は何も撮っていない。それと空腹(路銀欠乏)でファイトが萎えていたようだ。
名古屋鉄道3658特急
名古屋で初体験―といっても遊郭や赤線に行ったわけではないからお間違いのないように。ステーション・ホテリング(略してステホ)の第一回を挙行したのである。浮浪者(ホームレスなんて言葉は数十年後のものだ)が多数おり、本来の旅行者も多く座席確保だけでも大変で、便所にも行けない。深夜一斉に滞在者を追い出し、清掃後乗車券所持者のみ入室が許された。
翌日は関西線、片町線を経由して帰宅。この日はいい天気だった。関西本線の準急が気動車に置き換わるのにはまだ時日を要する。この時点亀山-柘植間は各停10往復、準急3往復、急行「大和」1往復だった。現在は19往復だが、昼間5往復は第2土曜日運休で、10~15時の間列車がない。
片町線貨物列車C11159 木津
片町線キハ41561 木津 片町線は長尾までが電化され、長尾-木津間はキハ41500が10往復だった。その後なぜかまっさらのキハ42601=鹿カコ(西鹿児島区)が一時ここで働いていた。
昭和28年の東京の画像も貴重ですが、今回の豊橋は当時記録に残されておられた方は更に少ないと思います。豊橋市内線の古い車両が体系的に紹介されたのは、ピク誌の昭和37年3月増刊号「私鉄車両めぐり」位で、ネット上で画像が発表されたのは今回が初めてではないかと思います。
オープンデッキの303号車は、明治43年名古屋電気製作所製の元名古屋市電の140形で昭和25年に購入しています。昭和37年時点でも、ビューゲル化されたくらいで撮影された当時のスタイルで営業に就いていたことがわかります。
次の402号車も貴重な車両で、やはり元名古屋市電ですが、更に前身があり名古屋市電下之一色線の前身、下之一色電車軌道の車両で大正13年日車製。この車も木製車ながら昭和37年時点では健在でした。
次に飯田線の電車ですが、モハ36+クハ38099+モハ32004の3連の中部天竜行は、先頭のモハ32004は快速色になっており、モハ36は田口鉄道の所属車両です。田口鉄道は昭和18年8月1日の飯田線前身の私鉄買収の対象から外されましたが、運行は鉄道省に委託され、27年5月に自主運行に戻りました。その後も昭和38年3月まで豊橋乗り入れは続けられました。画像の電車は、手持ちの時刻表(昭和32年10月)で調べますと、豊橋9時33分発中部天竜、三河田口行があり、これではないかと思います。ちなみに中部天竜には11時16分、三河田口には11時32分に到着しています。その後に10時8分発快速辰野行(辰野着14時47分)があり、湯口先輩はこれに乗車されたのではないかと思います。
クハユニ56004先頭の4連は前2両が快速色で、この時間帯ですと中部天竜発の電車と思います。クハユニ56004は常磐線にいたクハニ67005(昭和15年梅鉢車輌製)を、昭和27年に飯田線向けに郵便室の設置、座席のセミクロス化、トイレの設置改造をしたもので、それまでは伊那電買収の木製車サハユニフ100、110が使用されていました。更新修繕Ⅱが昭和30年3月に実施され、雨樋の取付けとグロベン化が行われたため、このスタイルは僅か3年で終わっています。
名鉄モ3850形の岐阜行特急は、新車で誕生した直後で「伸びゆく名鉄」を象徴するような画像です。その後、新性能車5000系→5500系冷房車→7000系パノラマカーと続きます。今回も貴重な画像を有難うございました。