初めての雪中撮影で米原へ<その1>
50年前の数年間、冬になると決まって訪れたのが、北陸本線米原~坂田~田村の交直接続区間でした。この区間の魅力を知ったのも、シリーズ前回の加太と同じ「鉄道ファン」の撮影地ガイドでした。この区間の魅力は、時代によって様ざまな交直接続機が見られたこと、湖西線は開業前で、大阪、名古屋方面からの優等列車も、ボトルネックのように通ったこと、そして、冬季は、もっとも手近に本格的な雪中撮影が出来ることでした。当時の米原は近くて遠い駅、もうすっかり雪国の気分を味わえるところでした。
▲雪煙を巻き上げて、高速で走り去る「しらさぎ」。米原駅から国道を歩いて1キロ余り先の撮影地に着いた。この区間は、前年8月に初めて訪れているが、夏とはまったく違った様相を見せていた(撮影日すべて昭和41年1月23日)。
京都を6時15分に発車する浜松行き440レで米原に向かう。列車は伊吹方面に向かうスキー客が多く見られた。すれ違うコンテナ貨物の上には、うっすら雪が積もっている。大津まで来ると、線路端には積雪があり、草津を過ぎるると一面の銀世界となる。こんな雪のなかを列車で走るのは、生まれて初めての経験で、米原に着く前から、ワクワクしてきたのを今でも覚えている。途中の駅からもスキー客が続々と乗り込んできて、列車は満員のまま7時48分に米原8番ホームに到着した。
▲米原に着いてさっそくカメラを構える。隣のホームから8時03分発の直江津行き233レが白煙にすっぽり包まれて出発して行く。牽引機はパイプ煙突からD50350と判る。
▲「しらさぎ」を追うようにして通過して行く青森行き「白鳥」14両編成、上野行きはなくなり、青森行き一本に集約されたが、、後部の付属編成4両は新潟止まり。
▲当時の交直接続の主役は、米原区に7両が配置されていたD50で、本州ではほとんど見られなくなっていた。化粧煙突も多く、整備状態も良い。しかも、200、300とキリのいい番号や、名鉄局の特徴であるグリーン地色のナンバー機もあり、たいへん魅力的なものだった。ただ、この日は、雪でウヤの貨物もあったのか、上り逆行は多かったものの、下り正向はほとんど見られなかった。
▲金沢発大阪行き急行「第一加賀」(上)と富山発大阪行き急行「第一立山」(下)、いずれも471・475系12連、当時、北陸方面の昼行優等列車は、特急が「白鳥」「雷鳥」「しらさぎ」の3本のみで、主体は471・475系12連の急行だった。DCも含めた急行は、大阪発、名古屋発、米原発で10本が設定されていた。
▲名古屋を始発として、高山・北陸・東海道を経由して名古屋へ戻ってくる循環準急「しろがね2号」、28・58系6連。「しろがね1号」は夜行だった。その逆コースは「こがね」で一本のみの運転だった。
▲普通列車は、長距離は客車だったものの、ローカル輸送は、キハ20の2連が彦根・米原~木ノ本を行ったり来たりしていた。この付近、長浜、米原、彦根と主要市町が続き、戦前から、キハニ36450と言った大型のガソリンカーが走ったりと、DCには歴史的に縁が深い。この先のところに、北陸本線で最初の駅となる坂田がある。客車列車はすべて通過で、このDCのみ停車した。木造の2両分のホームがあるだけで、当時は珍しい無人駅だった。その後の逸話だが、京都駅の窓口で「坂田まで」と切符を買おうとすると、「1380円」というびっくりするような高い値段が返って来た。坂田までは250円だったはず、券面を見ると、なんと「酒田」ではないか。同音の駅名が、京都の近くにあることを出札駅員でも知らないほど、坂田はほとんど乗り降りのない無人駅だった。
総本家青信号特派員さま
写真を拝見していて、さぞかし胸躍らせながら撮影されたであろう当時の様子がよく伝わってきます。
同所の交直接続機にD50がいたとは知りませんでした。そんな近くに居たのですね。小生はE10~ED30くらいのイメージしかありませんでした。そもそも同所を訪れたのはDE10になった最晩年の頃でした。
近郊ローカルDCは敦賀機関区の車で、急勾配のある北陸旧線の柳瀬線を経由する朝の一番列車で彦根へ行き、日中彦根・米原~木ノ本間を何度か往復したのち、宵のうちの敦賀行で戻る運用でした。写真の2両共がキハ20でしたでしょうか。敦賀にはキハ52も配置されていたので、写真からはよくわかりませんが奥の車は52のような気もします。DCは交直接続用として使用されたものではありませんでしたが、後の湖西線開通当初にも敦賀~近江今津間に同じく敦賀配置のキハ55・26が使用されていました。輸送量が少ない上に交直区間が介在したが故の措置だったのでしょう。
循環準急のしろがね・こがねは懐かしいですね。高校生のときにどうしても中部地方のローカル線に乗ってみたくて、中学生の弟と二人で一筆書きルートで回りましたが、京都からクハ86初期車の運転台後ろで米原へ、そこから名古屋発こがねの先頭車キハ55のデッキにあった補助椅子に陣取り、北陸線~高山線~中央西線夜行と回ったものでした。写真のしろがねは2両目と3両目以降にキハ55系が入っていますね。車体側面で違いが分ります。特に2両目は狭窓がズラッと並ぶキロ25のようです。まだ準急にキロ28は回ってこなかったのでしょう。また格下げ後のキハ26でもないと思います。
キハ82の白鳥といい471・5系の急行といい、もっと撮っておくべきだったと後悔しますね。当時はとにかくSLが目的のようでしたから。
1900生さま
長文のコメント、ありがとうございます。雪が積もると、途端にワクワクするのは、高校生の時も、前期高齢者になった今も変わりません。交直接続のD50は、この50年前ごろがいちばん華やかでした。それ以外はED30だけで、旅客も貨物もD50が牽いていました。その後、D51と交代、DD50、DE10も加わって、D50の活躍は5年程度で終わりました。
近郊ローカルのDCですが、当時のメモを見返すと、キハ20502+キハ20371となっていました。配置表を確認しますと、敦賀第一機関区はキハ20のみの配属で、かつて柳ケ瀬線のキハ52は転属したようです。まだ交直両用車両が優等車両に限られていた時代、どこでも走れるDCは重宝したものでしょう。また、わざわざ彦根までDCが乗り入れてしていたのも特筆されます。
「しろがね」「こがね」の思い出も聞かせてもらいました。キャプションには、28・58系と書いてしまいましたが、お書きのように2両目の側面が膨らんでいません。失礼しました。キロ25が入っていたのですね。キハ55のデッキの補助椅子、ありましたね、懐かしい思い出もありがとうございました。
当時のディーゼルカー柳ケ瀬越えの事は、私の生まれた翌年に、電化の新線になってしばらくディーゼルカーが運行していたことも知らなかった。
名古屋発~名古屋行のサボを見て疑問に感じた。小学校4年生の時に、飛騨高山を習い高山本線が岐阜~富山までの路線を聞いて、ここを通っていたことを知った。昭和36年の復刻版の時刻表を見て、北陸トンネルの開業前の山中越えで見たディーゼルカーは、この列車で、北陸トンネルを定期列車で最初に通った準急しろがねであった。
滋賀県内の坂田、河毛が普通列車でも止まらず、時刻表が理解できる様になって、配置区の事で敦賀まで行く列車が有り、他は木ノ本までの区間運転のディーゼルカーが止まっていた。北陸トンネルを出た、南今庄の場合は、今庄出たの退避が間に合わない時、上りの場合は北陸トンネル内の運転間隔を維持するために普通列車でも通過していた。
今は電車が止まり2~3両分のホームでは、編成が多くて長いローカル客車は止められなかった。坂田は電車に合わせて踏切の反対側に移動させたみたいである。白鳥が山中越えしていたことは後で、雑誌で知り当時車掌していた知り合いの人に聞けば、流石に当時の今庄駅でも止まらなかった。
総本家様
滋賀県に入っての雪景色にワクワクする様子はよく分かります。それにしても高校生の身でありながら走行写真はうまく収まっていますね。私の高校生の頃の走行写真はシャッターを押すのが速すぎて車両が小さく、画面の半分は空や田圃や家が写っております。
1900生様
D50の交直橋渡し役は晩年の特殊運用で有名でした。私は和歌山区のC57が加太方向を走ったのは知りませんでしたが、1900生さんでも知らなかったことがあるのですね。この区間はE10やED30よりもD50の活躍の方が趣味誌ではよく見かけました。昭和39年に撮影したキハ2連は金ツル一のキハ20でした。
準特急さま
コメント、ありがとうございます。当時はまだ雪の多い時代で、ふつう、逢坂山トンネルをくぐって、滋賀県に入った途端、雪が積もっているのが通例で、急に胸が高鳴るとともに、気候の妙を感じたものでした。
シャッターを押すのが早いのは、私も同じです。ただ、スキャン時にトリミングして、さも画面中央に入っているようにしているだけです。ただ、今のように連続シャッターなど夢の時代で、一発必中で、いい位置でとらえるよう、何度も学習はしました。秒間10コマの世代には、そのような学習はできないですね。
総本家様 準特急様
やはりキハ20でしたか。小生の記憶年代がちょっとズレていましたね。そういえばDD50という珍車も居ましたね。忘れておりました。ご教示ありがとうございました。
SLに関しては、当時はどうやらC56に目が向いていたようです。近場でも例えば山陰線余部や中国山地各線などは「どうせD51、C58やろ」と、撮影に出向く動機とはならなかったようです。今思うとなんと勿体ないことをしたことかと悔やまれますが、加太や奈良線で満足してしまったのかもしれません。もっと皆さまのように万遍なく撮ることを心がけるべきでしたが、特定の車種しか撮らないというのはもはや性分としかいいようがなく、反省しつつも未だにその傾向が続いており、良くいえば凝り性悪くいえばオタク的だと自戒しております。
寒さに弱い老人は震えております。そのためデジ青を見るのをさぼって居りました。田村と言えばDRFC設立の翌年(1959年)春だったと思いますが、クラブ行事として行きました。この時の米原ー田村間の連絡用の機関車はE10でありました。D50も居たように思いますが予備機であったように思います。その頃の駅員はおおらかで、我々が線路上での撮影を見守ってくれました。昼前に敦賀に移動して第二機関区見学でED70撮影会となりました。その後は第一機関区でSL,DK、DC等の撮影会をしたようですが、私は一人、第二に残り、試作車であった交流専用電車の説明を受け、撮影をしました。その後は敦賀駅構内でDLの撮影をしていたのですが、信号手の方も若者にいろいろ話しかけて下さり、「北陸トンネル開通後にはまたいらっしゃい」と言ってくれたことを今も覚えています。
乙訓の老人さま
ホントに寒い一日でした。コメント、ありがとうございます。DRFCの旅行で、米原を経由して敦賀へ行かれた一件は、旧掲示板1480にも詳しく載せられていました。その頃は、米原~田村は、まだ電化されておらず、おもにE10が間接接続していたことになります。私の訪れた6、7年前のことになりますが、その間の技術の進捗は著しいものがあったと改めて思います。敦賀一・二区にも、興味深い車両がいたようです。とくに交流電車の試作車を庫内に潜りこんでバッチリ撮られているのには感嘆しました。
1900生様
「どうせD51、C58やろ」はよくわかります。私が加太にあまり行かなかったのはC51や大和のC57が引退していたからです。しかし、今になったら私もD51やC58でももっと撮っといた方がよかったと悔やんでおります。加太はどういう車両が走っても感動を呼ぶ素晴らしい鉄道風景でした。故天野克正さんは「形式なんかどうでもええ」とか「機関区で形式写真は撮らん」とかこういうようなことを言われた記憶があります。そういえば天野さんの何とも言えない巧みに人を入れた雪の情景などにそういった天野さんのポリシーが感じられます。だから近くの多摩川の中央線などに行ってもいくらでも来る233系も流し撮りをやったりシルエットにしたり変化を付けていますが、やっぱり電機の方が面白いですし、珍しい車両や近くなくなる車両には力が入ります。
乙訓の老人様
御無沙汰しております。今日はえらい寒い日でした。庭の雪は1週間も残っております。私たちも若狭高浜での合宿の翌日に敦賀第一に行きまして偉大なC58(?)の汽笛を鳴らさせてもらったり記念撮影をしたりしました。その帰りには余呉で途中下車しておりますが、客車列車はまだED70が多かったです。ここは賤ヶ岳の古戦場の近くで後年小谷城とともに再訪しております。
田村へ着くとEF70が待機していたことが目に浮かぶ。昭和58年頃にEF81が待機して、EF70は敦賀以北になった。急行立山で、猛スピードで田村を通過して架線のない所を惰力で走り抜け照明も消えた。が、EF81ではそう言う訳には行かず車上切り替えが完成してから、EF81が米原へ入った。昭和43年のダイヤ改正まで蒸気機関車が橋渡ししていた。待機しているEF70のなかには、日本海のヘッドマークを付けていた機関車ものあった。
昭和44年に北陸本線が全線電化で、EF81が富山に配置され、湖西線開業時に敦賀第2機関区にも配置された。日本海が湖西線経由になってEF81が大阪駅まで入る様になった。名古屋~金沢間の急行兼六が廃止になって、しらさぎだけになり、新幹線接続で米原発の加越が運行して特急王国になった。急行廃止でローカル客車が電車化された。
EF70が九州へ移動しても、線路規格とEF70の出力も必要なくて、ED74の二の舞いみたいになった。同時期に九州へ行った分も北陸本線と同時期に終了した。
新幹線の試験目的で交流電化されてED70は、試験車両である。EF70は13、87Kmの北陸トンネルの上り勾配に合わせた電気機関車で、北陸本線の主力となった。
敦賀まで直流化された。北陸トンネルのEF510は、電圧の高い交流電化の方が効率が良いと思う。