ふたつの駅名がある駅
留萌線の残存区間から留萌、峠下の今昔を紹介しましたが、もうひとつ恵比島駅の今昔も紹介しましょう。恵比島駅も、無人の棒線駅、一日乗車人員1人台と、典型的な北海道の駅ですが、かつて留萌鉄道が分岐していて、石炭輸送の中継駅として賑わいを見せていました。訪れてみると、当時の姿は、すべて草木のなかに埋もれてしまい、面影は全くありません。ところが、NHK朝ドラのロケ地となったことを契機に、ふたつの駅名を持つことになり、ロケセットも観光資源として残され、流行りの聖地巡りか、時おり、観光客もクルマで訪ねて来るという駅になっています。
▲「えびしま」?「あしもい」? 駅名標もふたつ
▲恵比島駅3番ホームから発着する留萌鉄道のキハ1001(昭和43年)。下は50年後の恵比島駅に発着するキハ54、ただし両者は撮影方向が異なる
恵比島駅は、明治43年、深川~留萌(当時・留萠)の開通に伴い開業した。昭和5年には、留萌鉄道が恵比島~太刀別を開業、のちに昭和まで延長された。同鉄道との分岐駅となり、沿線の昭和炭鉱などからの石炭の中継駅として要衝となったが、昭和44年に閉山により、留萌鉄道は休止、のちに正式に廃止となった。昭和59年には、駅は無人化され、閉塞扱いの運転要員のみ継続配置されたが、昭和61年には、交換設備も廃止され、完全な無人駅となった。
▲ロケセットがそのまま駅舎になった。駅名標も明日萌のまま。駅前に一台だけ置かれた、「深川高校」とステッカーが貼られた自転車は、つぎの列車から降りた高校生が乗って行った。きっと同駅の一日平均乗車数1人台の主なのだろう。
そんななか、平成11年、北海道を舞台とした鉄道員の生き様を描いた、NHKの朝ドラ「すずらん」が放映され、その物語の舞台・ロケ地として選ばれたのが、恵比島駅だった。駅舎は、ロケセットとして架空の「明日萌驛」を建てて、昭和初期の雰囲気を再現した建物で、ほかにも官舎・旅館が当駅周辺の観光の目玉として、ロケ終了後も取り壊されることなく、継続して設置されている。もとあった「ヨ」駅舎も、カムフラージュのために木製板が貼られ、そのまま使用されている。
恵比島駅が選ばれたのは、線路が一直線であること。昭和初期にあっては困るような現代的なものが駅周辺にはないこと、駅前の広場と道路がメインストリートとしての雰囲気がある、といった理由からと言う。
恵比島へは、昭和40年代に2回訪れた。二面三線ホームで、留萌鉄道は、外側の3番線に発着していた。その北側には、多くの貨物側線と、留萌鉄道の機関区も有していた。同鉄道の線路はホームを出ると深川方に進んでから左手に曲がり、北に進んでいた。
▲改札口まわりと待合室、時刻表、運賃表、広告類も架空のものが掲げられている。ドラマの主人公の人形が外を眺めているのは、ちょっとシュール。
▲昭和44年に2回目に恵比島駅を訪れてみると、留萌鉄道は、この年の5月に休止になったばかりで営業は止めていた。機関区には、木造客車などが集められていた。貨物線や機関区で賑わっていた構内は、構造物はすべて撤去され、背丈以上の草木に覆われていた。
▲すべてが自然に還ってしまった恵比島を発車していく増毛行き列車。留萌~増毛の廃止に続いて、残存区間の深川~留萌も、JR北海道発表の「維持が困難な路線」として、廃止が取沙汰されるようになった。
「すずらん」はいいドラマでした。主演した柊瑠美という女の子の好演が記憶の残っています。同じくらい好演したのがC11171です。写真にある、座っている人形はラストシーンで思い出と共に死んでいく主人公「萌」を演じた倍賞千恵子でしょう。橋爪功演じる駅長はよき時代の地方駅の駅長そのものでした。いい写真をありがとうございました。
米手さま
コメント、ありがとうございます。朝ドラ「すずらん」を思い出していただく、きっかけになって何よりでした。ベンチに座っている人形は主人公を模したものでしょうが、駅長の人形も置いてありました。改札口付近の写真を拡大していただきますと、それが分かりますが、たしかに橋爪功に似た姿です。私は「すずらん」は全く記憶がありません。放映された時代からして、とても朝ドラなんか見ていられませんでした。むしろ、朝ドラのはしりとも言える「旅路」は、ちょうど大学時代で、ロケ地となった函館本線塩谷や小樽築港機関区に興味津々で眺めたものでした。
特派員様、
そうでしたね。「旅路」は思い出の多い番組でした。
たしか、9633号が“主演”していましたね。梅小路に来た時は懐かしく見たのを思い出しました。
この作品はカラー化の実験放送を兼ねて製作されたとかで、照明が暑くて大変だったと新聞で読みました。途中で就職のため見られなくなったのも思い出です。
私の記憶に残っている朝ドラは、この二番組だけでした。
米手さま
再コメント、ありがとうございます。「旅路」は私の大学生時代と書きましたが、調べますと、昭和42年4月から一年間放映と分かり、私は高校3年生でした。お書きの9633号は“旅路のSL”と呼ばれ、翌年、小樽築港機関区で見た時は、感慨深いものでした。
恵比島駅といえば極寒の昭和44年の2月にD61と留萌鉄道を訪れた際の想い出が甦ります。西村雅幸氏と小生の二人で訪ねましたが、恵比島駅西方でのD61撮影は線路の両サイドに積み上げられた雪の壁に阻まれて前面しか写せず、また余りの寒さに列車の来ない間は待合室のストーブに当たる始末でした。1度は撮影ポイントまで往復したものの、結局のところ場所を変えても同じような構図でしか撮れず、留萌鉄道のDCで深川へ戻るまでストーブ番をしていました。やっと来た同DC(国鉄留萌線DCの最後尾に併結)は何故か車内が排気ガス臭く、また最後部車掌台で車掌が暇そうに爪切りをしていたのが印象的でした。DCは総括制御をしていたように思いますが、車掌業務は完全にぶら下がっていたようです。
半世紀近く前の出来事でした。
1900生さま
恵比島駅の思い出を聞かせてもらいました。私は雪の季節に恵比島へ行ったことはなく、想像ができない感じですが、北海道でも有数の豪雪地帯だったのでしょうね。国鉄乗り入れの留萌車は下り1本、上り2本ありました。時刻表から推察すると皆さんは14:47発に乗られたのでしょうか。車両は、国鉄キハ22似のキハ2000が使われていたようです。改めて当時の時刻表を見返すと、留萌線には4往復もの急行が走っていたのですね。また、深川発で、札沼線経由の札幌行きもあって、現在では考えもつかないようなダイヤが設定されていました。
そうです総本家特派員さまの仰るとおり15時頃のDCでした。車両もおそらくそのDCだったと思います。
ご想像頂けない雪の壁などは当時の写真をご覧頂ければ一目瞭然なのですが、あいにく整理が悪くお目にかけることが出来ないことをお詫び申し上げます。
この時は以前西村さまが書いておられたように、札幌を朝8時頃の札沼線DCで出て恵比島に向かいました。途中浦臼から先ではレール頭面が雪で隠れて線路が見えず、運転士が保線係員に除雪が出来ていないと大声で怒鳴っていたことを憶えています。我々は頭面が隠れる位の雪だから走れないことはないとみていたので、随分居丈高に物を言うなあと驚いたものです。当時の機関士や運転士のプライドと立場がそうさせたのでしょう。
たまに昭和40年代の時刻表を見ると、その賑やかさを再認識することが多いですが、その一方で現在の寂れようには言葉がないですね。
1900生さま
札沼線、留萌線の思い出、ありがとうございます。誰が何と言おうと、我々世代の現役時代である昭和40年代は、鉄道に関しては最高に楽しい時代だったと思います。たまたま本日、クローバー会有志で記念誌の編集会議があり、1900生さまらが昭和45年冬に行かれて「青信号」に発表された雪中旅行記は、ぜひ読んでみたいとリクエストがありました。西村さんがアーカイブス事業として、復刻に取り組んでおられるとも聞いていますので、その際にはぜひ写真を整理していただいて拝見したいものと希望しています。