米子
4月に行われる木次線ツアーには多数の申し込みがあると聞いています。その際には、さまざまなサプライズ企画が用意されているとのことで、私も一部で協力させてもらいました。ここで木次線のことを書きますと、ネタバレになりますから、その関連で本稿を進めましょう。ちょうど50年前の昭和41年夏ですが、山陰地方を家族旅行で訪れたあと、途中から一人で、米子機関区、日ノ丸自動車法勝寺線、木次線を訪れ、夜行「ちどり」に乗って、広島、呉線を訪れました。初めての長距離一人旅でした。
得るものは多かったものの、いまは無残な状態でフィルムが残っています。この時、初めてのフィルムを自家現像したところ、真夏なのに液温調整もせずに現像して、超オーバーネガになったうえ、水洗不足がたたって、今や悪臭漂うビネガーシンドローム状態、最悪の仕上げとなって、隔離されて置かれています。見苦しい画像が続きますが、米子の50年前と現在を比べてみます。
▲ 石見益田発西舞鶴行き544列車が米子駅に到着する。牽引するのは、C5763〔米〕+C5728〔浜〕の重連、いずれも集煙装置付きのC57だ。続くのは荷物車代用のワキで、山陰本線ではよく見られた光景だった。
▲米子に到着する列車の窓から写した。右はC5747〔浜〕の牽く門司発福知山行き824列車、形式入りナンバーを付けている。左はD51657〔鳥〕の牽く貨物列車。
▲入換えに励むC1111〔米〕 1が4つ並んだこのカマは、2年前の昭和40年に境港線でお召列車を牽いている。もうひとつ、C11111は鳥栖区にいて、昭和35年に廃車になっている。
▲スエ7169(米ヨナ) この写真はI原さんが関わっていた客車専門の冊子に載せてもらった。マニ7470→スエ7169で、典型的な70系客車の流れだが、窓ガラスの内側から白ペンキで塗られているのが、山陰地方の救援車の特徴だとのこと。
▲68650〔米〕 米子鉄道管理局のビルを背に入換えに励む。
▲キハ07214(米ヨナ) 木次線で使われていた、液体式のキハ07も米子を基地としていた。
▲豊岡発門司行きが米子を発車する。C5747〔浜〕の牽引、この列車と言い、さきほどの門司発福知山行き、石見益田発西舞鶴行きと言い、山陰本線は長距離鈍行の牙城だった。
▲左からDF50、55、570、571、44、この当時DF50全137両のうち米子には41両の配置があり、日本一のDF50配置区だった。DF50は、最初0番台ズルツァー型が造られ、のちに出力が2割方強力になった500番台マン型が造られた。ほかのDF50配置区ては、いずれかに統一されていたが、米子区と高知区だけは、両番台が使われていた。出力が異なるものの、両者は共通運用で、山陰線の全線で広く使われていた。
▲もと米子鉄道管理局の駅ビル、いまもJR西日本の米子支社が入る。駅前には大きな建物はなく、ひときわ存在感があるのは50年前と変わらない。
▲地味だった米子駅が一瞬華やかシーンとなった。左は「スーパーまつかぜ7号」、右は「スーパーやくも24号」。▲キハ1261012ほかの快速「とっとりライナー」、鳥取までの約半分の駅を通過する。先に出発した普通とは、途中の赤碕で追いつき、地方には珍しく緩急接続している。 ▲新形式のDCが増えている山陰本線だが、まだキハ40系も頑張っている。キハ473017ほかの鳥取行き256D。
総本家青信号特派員様
フィルム現像の失敗、私も何回もあります。懐かしい話ですがこういう作業は気の短い人には向いていないような気がします。雨戸を閉めて室内を暗くしての暗室作業も短気な私にはほとんど失敗で覆い焼きなど無理でした。デジカメになって楽になりましたが、今でもスキャンした古い画像の修正は失敗しがちです。ところで山陰西部のC57ですが、28号、47号は撮ったことがありません。DF50も蒸機を追っかけていた時代は嫌いな機関車でしたが、馬力とか性能は別としてイケメン機関車のひとつに見えます。何といっても凸型でないところがいいと思います。
準特急さま
コメント、ありがとうございます。フィルム現像は、高校生の時代から始めて、モノクロフィルムを止めた2001年までの35年間、約1800本のフィルムを自分で現像していました。初期の頃は失敗も多く、熟達した頃にも思わぬ落とし穴で、幻となったフィルムもありますが、今となっては、すべてが思い出です。やはり、現像、定着、水洗と進み、ネガの像を見た時の感動は、いまのデジタルでは味わえません。
山陰西部のC57は、私もそれほど撮っている訳ではありませんが、同じ山陰本線でも、京都口では決して見られないだけに、〔米〕〔浜〕の区名板を付けたC57に接すると、思わず居住まいを正したものです。