米子(2)
米子機関区での撮影を終え、米子駅から東へ歩いて、最初の踏切を渡って南側へ行くと、民家に囲まれて日ノ丸自動車法勝寺線の米子市駅がありました。
法勝寺鉄道として大正13年に開業、米子市(当時・米子町)から法勝寺までと、途中から母里へ向かう支線がありました。社名を何度も変えながら、鳥取県でバス事業を行う日ノの丸自動車の電車部門となり、訪れた当時は、米子市~法勝寺12.4キロを16往復の電車が結んでいました。地方私鉄がどんどん廃止されていた時代、ご多分に漏れず、法勝寺線も廃止の申請が出されており、訪問した翌年、昭和42年5月に廃止されました。廃止時の車両は、電車4両(デハ201・203・205・207)、客車6両(フ50・51・52・53・55、フニ100)、貨車2両がすべてでした。 ▲米子駅の裏側に隠れるようにしてあった日ノ丸自動車法勝寺線の米子市駅、当時はバス社が経営する鉄道だった。
▲発車を待つ法勝寺行きデハ203+フ100 203の前身は池上電鉄の形式乙号2で、昭和5年に法勝寺に来た。同形でニセスチール化された車両もあるが、203の外板は木造のままだった。203は南部町立図書館にきれいな状態で保存展示されていることが、本欄でも西村さんにより報告されている。
▲国鉄線に対してほぼ直角に位置していた米子市駅の構内、一面の狭いホームの奥(左手)へはカーブして国鉄への連絡線が続いていた。右手はフ52、もとは新宮鉄道のオープンデッキの客車。
▲フ50 1887年英国製の木造2軸のマッチ箱、関西鉄道が輸入した。当時、国内最古の現役の木造客車と言われていた。窓割りに古典客車の面影が残っている。廃止後は、米子市内の公園で保存されていたが、破損が激しいため再修復され、市内の別の場所に、上家が付いたレール上に展示されていると言う。
▲フニ100 一畑電鉄立久恵線の廃止により昭和40年に移って来た。客車としては唯一のボギー車で、ラッシュ時には重用されたようだが、当線での在籍はわずか2年だった。▲デハ201 前記のデハ203と同じ出自の木造電車だが、こちらは鋼板を張ってニセスチール化されている。法勝寺線の塗装は、下部が青、上部がかなり濃い目のクリームと、この時代にしては、ずいぶん派手な出で立ちだった。
改めて法勝寺線のことを当掲示板で調べると、とくに旧掲示板では、乙訓老人や湯口徹さん、藤本哲男さんらによる写真、訪問記が掲載されていた。廃止されてから、今年でちょうど50年になる地方私鉄に、多くの先輩会員がちゃんと記録として残されているのを見て、改めて当会の厚みを感じた次第である。