米原駅での交直接続のD50を見る
米原市での鉄道資料展の様子を寄稿をしたところ、準特急さんやマルーンさんからの思い出コメントをいただきました。米原、というところは皆さん思い出の詰まった駅のようです。
私も、米原の名を聞くだけで“遠くへ来た”という感慨に浸ります。今では京都から新快速に乗れば1時間足らずで到着ですが、その思いは変わりません。草津、近江八幡、彦根と、停車駅のアナウンスを聞いても眠気を誘うだけですが、「つぎは米原」のアナウンスを聞いた途端に高揚感に包まれます。それは、米原からの乗り換えを心配する緊張感も含まれるのでしょうが、きっと中京圏、北陸圏と合流することの空気感の違いを身体で認識するのでしょうか。米原~田村の交直接続区間に働いていたD50を求めて、よく訪れましたが、改めて50年前の米原駅の思い出を綴ってみることにします(昭和41年8月1日撮影)。
▲朝の米原駅5番ホーム、米原発直江津行き233レ、D50201[米]、よく見ると駅弁売りも見える。右はD50200で、珍しい続き番号機。名鉄局らしく、ナンバープレートの地色はグリーンに塗られていた。
米原駅は、昭和30年、東海道線電化延伸に当たって大改良工事が行われた。操車場が移設され、上下線間の抱き込み式になって客貨が分離された。旅客上り線は大きく湖側に移されて、2面4線のホームが設けられた。それまで平面交差していた北陸線と東海道線上りは、駅の北側で立体交差することになった。旅客下り線は従来の3面5線ホームを継承し、上下あわせて5面9線ホームとなり(6番線は欠番)、長い跨線橋で上下線が結ばれた。撮影したのは、この時代の駅構内だった。
▲長い跨線橋の下で待機するのは交直両用の接続の試作機、ED311、EF55の機器を流用して昭和37年に造られた凸型で、初めて下枠交差パンタを使用した。471系などと同じローズピンクに塗られて活躍したが、その期間はわずかだった。
JR化後は、東海と西日本の境界駅となり、機関区・客車区は廃止され、跡地は電留線になっている。平成10年に操車場の縮小に合わせて、下りホームが上り側に移設され、新たに1面2線のホームを設けるとともに、東口駅舎も移設新築された。旧の下りホーム3面5線と東口駅舎は解体され、跡地は新しい駅前広場として整理されている。▲9番ホームに待機する大阪発富山行き荷物専用の2045レ、現在の7番ホームに相当する。ホームの「急行券うりば」も懐かしい
▲▲発車した2045レ、牽引のD50201は、この日、大活躍だった。▲手前は長工デフのD50131、向こうはD50200、夏の午後の暑さが伝わってくる。
▲▲跨線橋から見下ろしたD50131
▲5番ホームで待機する米原発敦賀行き245レ、D50131、現在この付近は、米原駅東口広場に相当する。
50年前に米原機関区に在籍した蒸機は、交直接続のD50が131、200、201、249、300、328、350の7両、入換用のC58、8620もいた。米原機関区は、名古屋鉄道管理局の管理下にあり、とくに蒸機は、大鉄局とはあきらかに違う仕様・装備のカマもいて、鉄道車両においても、地域差を強く感じたものだった。▲同一地点の対比。10番ホームで発車を待つ、米原発浜松行き530M、クモユニ81005ほか、この写真ではよく分からないが、次位以降はスカ形70系である(昭和42年1月)。
▲▲駅の縮小で10番ホームは、8番ホームになった。左手の新幹線との境目は、以前は遮るものはなかったが、いまは風防ガラスで仕切られている。ホームの手小荷物を積載する台車は、さすがに無いが、待合室はそのままだ。
総本家青信号特派員様
停車駅のアナウンス、他の駅とは違う「次は米原」の響き。よくわかります。ここは国境の駅です。若き日の総本家さんが米原駅ホームを必死になって徘徊した様子が目に浮かびます。蒸気機関車、それも化粧煙突のデコマルが牽引する客車列車。クモユニ81の窓の雪もよろしいですね。その後ろの70系は大垣方面行きでしょうか。何も細工をしていないオーソドックスな写真ですが、それぞれ素晴らしく見ていて飽きが来ません。駅弁売りの人、急行券売り場、荷物運搬台車、どなたか言われたホームの洗面台。不便でしたが、今思えば長距離旅行の楽しい雰囲気を感じさせる駅でした。このあこがれの米原、11月12日土曜日に泊まります。ホームカミングの前日です。総本家さん米原は新快速で直ぐです。
準特急さま
速攻コメント、ありがとうございます。米原は、まさに国境ですね。食べ物から、文化・経済まで、日本を大雑把に分けるとすると、やはり関ケ原付近で線引きされるでしょう。その意味では、米原は日本を二分する国境になるかもしれません。その米原駅、確かに昭和の小道具が揃っていました。水道栓がずらりと並んだ洗面台も有名でした。本線筋で最後まで残った洗面台ですね。