わが 鉄道熱中時代 ~3~

交直接続区間 米原~田村で熱中する ①

いまでは、“交直接続”という言葉も死語に近くなりましたが、北陸本線の米原~田村には、平成3年まで交直接続区間がありました。交直両用機がない時代、客車列車は、米原で直流機から蒸機に付け替えて、田村まで4.7kmを走り、あとは交流機に代わるという煩雑な付替作業が伴いましたが、その分、さまざまな車両が見られたのが、この区間の魅力で、昭和40年に初めて行って、その後何度も撮影することになります(以下、昭和40~42年撮影)。

米原まで来ると、ここは名古屋鉄道管理局の駅であり、ホームに吊り下げられている「のりかえ敦賀・金沢方面」の案内を見て、北陸方面に向かう高揚感を覚えたものだ。上下線ホームが分離した広大な構造で、貨車がびっしり詰まった操車場、忙しそうに行き交う入換機、国鉄の一大ジャンクションであることを強く感じたものだ。北陸本線ホームへ行くと、待望のD50の牽く列車が発車を待っていた。初めて写すD50だった。

この区間の蒸機と言えば、E10が有名だったが、当時はもう姿はなかった。まもなくD50、D51が転入して客貨を牽く。昭和40年現在、米原区には7両のD50、131、200、201、249、300、340、350が在籍していた。当時D50は、北海道、九州ではまだ活躍していたが、本州での稼働機はあと釜石ぐらいで貴重なカマだった。大阪発新津行き511レ D50 200[米]D50の元を正せば、北陸本線の電化の進展で、富山、金沢区などから来た。7両は、ほとんど原型の化粧煙突で、200、300とキリのいい番号や、名鉄局の蒸機の特徴であるナンバープレートの地色を赤、緑に塗ったカマもあった。運用の都合で重連も見られた。これはD50 201+D50 200の連番重連。

最初に行った時の思い出を。下車駅は米原だが、途中下車して切符を確保するため、米原~田村にある坂田まで買おうと思い、京都駅の出札口で「“さかた”まで!」と叫んだところ、「1380円」と途方もない値段が返ってきた。財布には1000円も入っていない。切符を見ると、同じ“さかた”でも、羽越本線の「酒田」ではないか。「あの~、米原の次にある、北陸本線の‥‥」と説明し、やっと金200円也の「坂田」の切符が出てきた。坂田は、田圃のなかの無人駅で、切符もほとんど発売がなく、京都駅でも認知していなかったのだった。D50は、写真のような長工式デフを装備したD50 131もいた。米原区の伝統でもある行き届いた整備で、デフに白縁取りも入れられて注目を浴びていた。

大型の集煙装置を付けたD50もいた。D50 328で、そのスタイルから分かるように、長野工場製で、長野区にいて信越本線の客貨を牽いていた。大阪発金沢行き臨時急行「ゆのくに」。この区間を通る優等列車は、電車、DCだったが、臨時にはまだ客車が残っていて、蒸機が牽引する姿が見られた。米原から田村に到着しても折返しの田村には転車台は無く短区間のため、上り米原方面は客貨とも逆向運転になり、テンダーを先頭にしていた。

日本海縦貫線を構成する北陸本線だけに貨物列車がたいへん多い。D50 131の単機とすれ違う。ゆったりと広い米原駅構内で、夕方に発車する列車を写し終えて、帰途に就くことが多かった。米原発敦賀行き245レ磨き込まれたD50が2両、ボイラーが夕陽に照らされていた。交直接続の蒸機は、昭和43年からD51が転入して、D50と交代するものの、昭和44年には米原区の蒸機配置は無くなり、後述するEL・DLに代わっていく。

 

 

 

 わが 鉄道熱中時代 ~3~」への8件のフィードバック

  1. 総本家さんより4~5歳年上の私ですが何回も申し上げているように趣味への目覚めが遅く、従って撮影の時期、場所も重なっていることが多いようです。ただ、田村付近は1回きりの訪問ですし、なにより腕前は私の方が相当下です。写真は1964年3月19日バック運転のD50300[米原]牽引の富山発504列車急行「立山」大阪行きです。先頭の客車はスハフ42です。

    • 準特急さま
      いえいえ、私はこの区間へ行ったのは、昭和41年で、準特急さんのように、「立山」が客車で、この区間、D50に引かれていたのは、知りません。手前に稲株が積んである写真は、たしか「鉄道ファン」の小寺康正さんの撮影地ガイドに載っていたように思います。化粧煙突のD50300とスハフ42の組み合わせ、逆向きも絵になります。

  2. 総本家青信号特派員様
    通過したことは何度もありましたが、私が初めて「米原」に下車したのは1963年8月でした。いつも大阪から近江今津まで江若鉄道を利用して往復していましたが、時刻表を見て初めて「普通周遊券」を使用した旅行をしたくなり、次の様なコースを作成ました。

    大阪-(東海道本線)-米原-(北陸本線)-木ノ本=(国鉄バス琵琶湖本線)=近江今津-(江若鉄道)-浜大津(徒歩連絡)大津-(東海道本線)-大阪

    ① 周遊指定地2カ所以上(大崎観音と三井寺)
    ② 会社線の運賃合計が国鉄線運賃合計の1割以上(江若鉄道を経由社線として利用)
    ③ 国鉄線101キロ以上(大阪-木ノ本132.9キロ)

    普通周遊券構成する当時の最低限の条件を満たしていました。翌年の1964年に「周遊割引乗車券発売規則」の改定により項番③が201キロ以上となったため、このコースは成立しなくなりました。

    1966年8月25日の米原です。

    • 快速つくばね
      元祖“ビワイチ”版の周遊券ですね。たまたま木ノ本駅で撮った写真の中に「国鉄自動車びわこ線」の看板がありました。もう周遊券の時代ではありませんでしたが、かつては、この駅が周遊指定地下車駅
      であることを誇示していたのでしょうか。周遊券の条件を満たすと、国鉄運賃は、1割引きになりましたから、周遊指定地のなかで安価な区間を付けて、出張など観光以外に、使う裏技がありました。

  3. 私が初めて鉄道の写真を撮ったのは1967年3月、中学を卒業した春でした。そのころの写真は父親が持っていたCanonの沈胴式カメラを借りて撮りました。鉄道写真を撮るのを目的に出かけたのは翌年の1月に田村に行ったのが最初で、駅撮りで、上下のホームを行ったり来たりして撮ったのを覚えています。今回投稿していただいたおかげで昔のことを思い出し、当時のネガを引っ張り出してデジタル化してみました。

    • 大津の86さま
      米原の思い出と写真、ありがとうございます。「翌年の1月」と言うことは、Z高校1年の時ですか、かく言う私も高校1年の時でしたから、目覚めは同じなのですね。私も田村の駅ホームを右往左往して写したものです。化粧煙突が重連で待機しています。近くに、ほんとに良いところがありました。

  4. D50はあまり好きな機関車ではなかった。なぜなら車高の割に足回りが低く、おまけにデフは大きくてアンバランス。早く言えば不細工な機関車だった。ところが特派員氏の写真を見て驚いた。ラストから二枚目の131号機のかっこよさ!撮す角度を選べばこれほどの男前になるのか!改めて131号を探したが角度ではなかった。撮る技術の問題だったと痛感させられた。

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