現在も横浜・山下公園に保存・係留されている氷川丸には、かつてユースホステルが併設されていました。氷川丸は、1930年に建造された12000トン級の大型客貨船で、永らくアメリカ航路で活躍、昭和35年に運航が終了したあとは、山下公園に係留され、内部はそのまま宿泊設備として転用されました。3等船室は、2段ベッド、相部屋で、改造もなしにそのままユースに転用が可能でした。
泊まったのは昭和42年8月、高校3年生でした。夜行鈍行で東上、まず国府津で御殿場線のD52を撮ったあと、横浜へ向かいました。関東方面に向かうのは中学校の修学旅行以来でした。
▲御殿場線のD52が国府津駅で発車を待っている。当時、御殿場線にはDCも走っていたが、客車列車は、貨物とともに、国府津区のD52が牽いていた。40年以上前とはいえ、東京から80キロ足らずのところに、こんな大型蒸機がいたこと自体、信じられないことだった。走行中は撮らず、もっぱら駅と機関区での撮影に終始した。右に当時愛用していたリュックが見える。
▲ユースで食事後、夜の山下公園へ出かけ、氷川丸を夜間撮影した。今も氷川丸は、全く同じ位置に停泊したままだ。船体の塗装は、当時スカイブルーだが、現在は、航行当時の黒に塗り替えられている。内部は新たにリニューアルされ、宿泊設備はなくなったようだ。
▲横浜駅の東口。三代目として昭和3年にできた駅舎で、建設当時は最大級の駅舎で、西口はまだ全く未開拓だった。昭和55年に現在の駅ビルになり、駅前は高速道路が高架で通り、大型デパートや高層ビルが林立する。以前の掲示板に米手作市さんが横浜駅の東口に触れられていたが、東口駅前は横浜の玄関口と言いながら、古びた工場・倉庫ばかりで、引込み線が延びるだけの荒涼とした光景が広がっていた。
▲その後、都内へ行き、都電に乗って須田町まで行き、交通博物館を見学した。あとは物見遊山で、皇居前や当時、日本で最初の高層ビル、完成直前の霞が関ビルを見物に行った。なにせ関西では高層ビルというものは全くなかった時代、さすが日本の首都だと感嘆したものだ。東京駅前で都電を写そうとするが、このように車に邪魔されてうまく写せなかった。ただ、却って車に時代を感じるかもしれない。よく見ると、八重洲側の大丸が入店していた駅ビルは建設中のようだ。それがもう取り壊されるぐらいに時代は過ぎてしまった。
御殿場線のD52も撮っていたのですね。ここは当時の関東のファンがよく通っていた所で、山北と御殿場だったと思いますが、そのD52が保存されています。国府津にも居たようですが、今は扇形庫も無くなったのでどうなりましたか。
横浜駅東口駅舎はよく記録されましたね。総本家さんご指摘のとおり東口は大変貌してそごうなどの大きな建物に埋め尽くされており、昔の面影は全くありません。あの頃は黄色い車体に水色の線を入れた横浜市電が走っており、中には400や500型の単車も居て驚いたものです。市電通りの先の高島貨物ヤードには8620やD51がおりました。もっと昔はC56も居たようです。新進気鋭の写真家総本家さんに初めて出会うのはこの1年後ですね。
私も特派員さん同様、現役時代はユースホステルをよく利用しました。質はともかく、安価で食事と寝る場所が確保されているのは魅力でしたが、「安かろう悪かろう」の所も多々あり、ご飯のおかわりができない所もありました。社会人になって、関西から東京に転勤した時、東京地区で最も食事の評判が悪かった寮に入ったのですが、皆が言うほど酷いと思わなかったのは、多分ユースホステルの食事で鍛えられていたからでしょう。
長野の教授院は2回宿泊し、長野電鉄、上田丸子電鉄に行きました。お寺ですので食事は「精進料理」で風呂が無く、近くの銭湯(鶴の湯)の券をくれました。
氷川丸は3回宿泊し、横浜市電や都電、南武線、鶴見線の旧形国電を撮影しています。背の高い2段ベッドでカーテンでプライバシーは守られており、食事もまあまあだったと思います。御殿場線はキハ51は撮影していますが、D52は撮影しておらず、電化後の旧形国電は結構撮影しました。
次は何処のユースホステルが出てくるのか楽しみにしています。
準特急様
いつも暖かいコメント、ありがとうございます。
国府津には確かに扇形庫が東海道線に向けてありました。今は取り壊されて更地になっていますね。横浜駅東口駅舎を高校生が記録していたのも何か感じるところがあったのでしょうか。向かいの高島貨物駅には8620やD51がいたはずですし、準特急様もおっしゃるように単車の市電も駅前で写せたはずですが、全く写していません。横浜で撮ったのはこれ一枚だけでした。
藤本様
コメントありがとうございます。藤本さんと一緒にユースに泊まったことを思い出します。長野や横浜に、こんなに沢山泊まっておられるとは、さすがに藤本さんです。教授院には風呂がなかったのですか。私は銭湯へ行った記憶はなく、ただただ寒かったことだけしか記憶に残っていません。