続きも東北のユースの話を。
蒸機時代の東北の名所と言えば、龍ケ森と奥中山が双璧でしょう。その2ヵ所をハシゴしたのが、昭和43年、大学1年の夏休みでした。龍ケ森で当会伝統の狂化合宿が厳かに且つ賑々しく行われ、その参加の前後に奥中山にも寄ったのでした。
龍ケ森はまだハチロクが全盛、奥中山も同年のヨンサントウ改正を前に、大型蒸機が最後の活躍を見せていました。今回紹介するのは奥中山ユース、奥中山の名は知られていても、ユースの名はほとんど認知されていませんでした。
なにせ奥中山駅から交通機関のない山道を1時間以上歩かないことには到着できない、未踏のユースなのです。この時は、別のユースに宿泊予約を入れていながら、止むを得ず泊まるハメになったのです。その経緯は後述するとして、奥中山の一日から綴ってみました。
▲前日、磐越東線でD60を撮ったあと、急行「八甲田」で深夜の盛岡入り。駅のベンチで合宿用に買った寝袋で仮眠をして、夜明けとともに駅裏の盛岡機関区へ向かう。真っ先に目に飛び込んできたのが、C60のトップナンバー機だった。「1」のナンバーを見ると、とくに蒸機の場合は感慨深いものがある。東北のカマらしく煙突回りに小デフを付けている。盛岡区は最後の大型蒸機で賑わっており、前にも紹介したが、区に置かれている「ゆうづる」「はくつる」のヘッドマークをC60、C61に付けては楽しんだ。C601は、この年の10月の東北本線完全電化で廃車となり、翌年には仙台市の西公園に保存された。以前、Fさんと仙台市電を撮りに行った時に、同公園で保存されているC601に再会している。
▲盛岡7時50分発の539レで、いよいよ奥中山へ向かう。D51868〔尻〕+C6018〔盛〕の重連。盛岡を出ると車窓に見える岩手山の山容、そして、厨川、滝沢、渋民、好摩、と続く駅名の響きが、「みちのくへ来た」という感慨になる。御堂~奥中山の中間にある、有名な吉谷地の大カーブに列車は差し掛かる。東北本線は、腹付け線増された区間が多く、このように上下線が離れている区間が多い。広々とした雄大な東北らしさを演出してくれている。
▲沼宮内で若干の停車時間がある。ホームのすぐ横の側線には、これから始まる十三本木峠の難所に備えて、多くの補機が休んでいる。ホームから飛び降りて、ひと通り写し回った中で、今度はD51のトップナンバー機と初めて出会った。同機は、トップナンバー故か、用途を終えると、その後、各地へ転属を繰り返す。私も各地で出会ったが、特別扱いされることなく、多くの本務・補機の一員として黙々と働いている、この時期の姿が、いちばん似合っていた気がする。
▲待望の奥中山到着、頬をなでる風もさすがに涼しさを感じる。駅でダイヤを聞こうとすると、ちょうどD51三重連が通過してしまい、臍をかむ。トンネルを越えて吉谷地の大カーブへ向かうが、来る列車、DD51かED75ばかりで、蒸機が全く来ない。トンネルを越えた水路橋の下で捕らえたED75132の荷43レも、これが蒸機だったらと悔やんだものだが、今となっては、かえって貴重な記録かもしれない。
▲一緒になったファンから、奥中山で撮っても、煙の期待できる下りの蒸機列車はほとんど来ないので、峠の反対側の小繋へ行かないかと誘われる。奥中山以上に雄大な区間があるし、煙を期待できる上り蒸機列車も多いと言う。思い留まればよかったものの、疲労と空腹で思考能力も著しく低下していた。ノコノコ着いて行ったのが、悲劇の始まりだった。小繋まで行き、炎天下の中を4キロほど歩いて、小繋~小鳥谷間の中間地点まで来た。確かに雄大な光景ではあるが、架線に阻まれてロングは難しい。ふと今晩予約していた、花輪線大更駅前のユースが気になって時刻表を見ると、まだ16時前後というのに、本日中に大更までの到着が不可能なことが分かった。東北本線と接続する好摩の下り花輪線の最終はなんと18時47分、夏ならガンガン照りの時間帯にもう終列車が出てしまうのだった。
▲一瞬、顔が青ざめた。もう撮影どころではない。同行のファンから離れ、もと来た線路上を必死になって戻った。途中でD51三重連が通過、本日初めての三重連だが気もそぞろ。奥中山にユースがあることを思い出し、何とかここまでは到達したい、しかし奥中山は次の駅なのに、運悪く列車は数時間も先、もうここは、初めて経験するヒッチハイクしかない。恥ずかしそうに手を挙げるが、クルマは止まる気配もない。やっと止まってくれた大型トラックの運転手に懇願し、奥中山駅まで送ってもらう。
ところが駅で聞くと、ユースは駅からはるかに離れた高原の頂上に所在し、駅からは歩くしかないと言う。1ヵ月分に近い重い荷物を背負い、夜行連続でほとんど寝られず、しかも前日から何も口にしていない。水も尽きた。靴ずれの足も痛む。夢遊病者のようにフラフラになりながら、山道を歩き、ようやくユースに到着した。ところが悲劇はまだ待っていた。まさか宿泊客など居るはずがないと思っていたところ、近隣の林間学校生が大量に宿泊し、これ以上は泊められないと言う返事、思わず床に倒れそうになったが、拝み倒して、薄汚いバンガローの片隅にようやく泊めてもらえることができた。もうとにかく、体力の極限まで使い果たした、奥中山ユースだった。
奥中山と聞けば一言申し上げなければならない。大学へ入ってからの夏休みは毎年東北行、特に電化間近とあれば時間的余裕はない。
東北といえば御堂-奥中山である。早速ユースホステルを探すとなんと「奥中山ユースホステル」があるではないか!勇躍C60の牽く列車から降りたら、なんと高原にポツンとたたずむ駅だけ、周りは家一軒無い荒れ地に立つ孤高の駅だった。
さて、Y・Hはどこかと尋ねたら夕日にシルエットが美しい山の中腹を指さした駅員氏が「あの煙の出ているところだよ」とこともなげに言う。キスリングを担いでとぼとぼと歩き出したが当時は駅前からすべての道が地道で、岩がごろごろの悪路だった。特派員氏が行かれた頃はどうだったかは知らないが40年頃の開拓地はこんなものだろう。人っ子一人通らない山道を歩いていると遙か彼方から砂塵をあげてカウボーイが・・・ではなくジープが走ってきた。呆然と見ていたら目の前で止まった。Y・Hから見ていて迎えに来てくれたという。ありがたく乗せていただいた。真夏なのに寒い夜だったこと、星が空一面に出てきれいだったことを思い出しました。その後も数回お世話になりました。
総本家さんがヤバイと思ったのは鹿島鉄道の突風くらいと思っていましたが、この43年は連続してえらい目に遭われたのですね。自慢ではないですが、私は双璧であった竜ケ森も奥中山も降りたことがなく、ハチロクのもう一つの有名路線であった五能線も花輪線同様乗ったことがありません。JR東日本には大人の休日クラブというのがあり、新幹線も乗れて安くあがるので体の動くうちに乗り回してこようと思っております。トップナンバーに出会うと嬉しいものですね。東北のC60は男前であったC59の変身にしては可愛そうな姿に思えます。自然環境の厳しさがそうさせたのかもしれません。東北は浅虫のYHしか泊まった事がありませんが、朝礼だかミィーティンングがあって早朝の通勤列車などを撮り逃した様な記憶があります。
失礼しました。
奥中山YHは、自分の青春そのものでした。
大学が盛岡で、YH同好会に所属。
年に何回も奥中山YHに行きました。
早春の西岳山頂の小雪渓。
春は西岳のタケノコ採り。汗まみれでYHに戻ると牧場の搾りたての牛乳が待っていました。
夕食は山菜の大皿料理。昔はタラノメの栽培などなかったので、すべて天然。
夏はキャンプファイヤー。
秋、冬も訪れて、帰る時はYHの建物から当時流行っていたNSPの「さよなら」が流れました。
結婚して子供ができて、一度盛岡でレンタカーを借りて行ってみましたが、もうすでに建物はなく、我が家の自分の部屋に飾ってあるモノクロの雪のYHの写真が、青春の懐かしさです。