ユースで巡った鉄道旅 -13-

続きも東北のユースの話を。
蒸機時代の東北の名所と言えば、龍ケ森と奥中山が双璧でしょう。その2ヵ所をハシゴしたのが、昭和43年、大学1年の夏休みでした。龍ケ森で当会伝統の狂化合宿が厳かに且つ賑々しく行われ、その参加の前後に奥中山にも寄ったのでした。
龍ケ森はまだハチロクが全盛、奥中山も同年のヨンサントウ改正を前に、大型蒸機が最後の活躍を見せていました。今回紹介するのは奥中山ユース、奥中山の名は知られていても、ユースの名はほとんど認知されていませんでした。
なにせ奥中山駅から交通機関のない山道を1時間以上歩かないことには到着できない、未踏のユースなのです。この時は、別のユースに宿泊予約を入れていながら、止むを得ず泊まるハメになったのです。その経緯は後述するとして、奥中山の一日から綴ってみました。

前日、磐越東線でD60を撮ったあと、急行「八甲田」で深夜の盛岡入り。駅のベンチで合宿用に買った寝袋で仮眠をして、夜明けとともに駅裏の盛岡機関区へ向かう。真っ先に目に飛び込んできたのが、C60のトップナンバー機だった。「1」のナンバーを見ると、とくに蒸機の場合は感慨深いものがある。東北のカマらしく煙突回りに小デフを付けている。盛岡区は最後の大型蒸機で賑わっており、前にも紹介したが、区に置かれている「ゆうづる」「はくつる」のヘッドマークをC60、C61に付けては楽しんだ。C601は、この年の10月の東北本線完全電化で廃車となり、翌年には仙台市の西公園に保存された。以前、Fさんと仙台市電を撮りに行った時に、同公園で保存されているC601に再会している。

盛岡7時50分発の539レで、いよいよ奥中山へ向かう。D51868〔尻〕+C6018〔盛〕の重連。盛岡を出ると車窓に見える岩手山の山容、そして、厨川、滝沢、渋民、好摩、と続く駅名の響きが、「みちのくへ来た」という感慨になる。御堂~奥中山の中間にある、有名な吉谷地の大カーブに列車は差し掛かる。東北本線は、腹付け線増された区間が多く、このように上下線が離れている区間が多い。広々とした雄大な東北らしさを演出してくれている。

沼宮内で若干の停車時間がある。ホームのすぐ横の側線には、これから始まる十三本木峠の難所に備えて、多くの補機が休んでいる。ホームから飛び降りて、ひと通り写し回った中で、今度はD51のトップナンバー機と初めて出会った。同機は、トップナンバー故か、用途を終えると、その後、各地へ転属を繰り返す。私も各地で出会ったが、特別扱いされることなく、多くの本務・補機の一員として黙々と働いている、この時期の姿が、いちばん似合っていた気がする。

待望の奥中山到着、頬をなでる風もさすがに涼しさを感じる。駅でダイヤを聞こうとすると、ちょうどD51三重連が通過してしまい、臍をかむ。トンネルを越えて吉谷地の大カーブへ向かうが、来る列車、DD51かED75ばかりで、蒸機が全く来ない。トンネルを越えた水路橋の下で捕らえたED75132の荷43レも、これが蒸機だったらと悔やんだものだが、今となっては、かえって貴重な記録かもしれない。

一緒になったファンから、奥中山で撮っても、煙の期待できる下りの蒸機列車はほとんど来ないので、峠の反対側の小繋へ行かないかと誘われる。奥中山以上に雄大な区間があるし、煙を期待できる上り蒸機列車も多いと言う。思い留まればよかったものの、疲労と空腹で思考能力も著しく低下していた。ノコノコ着いて行ったのが、悲劇の始まりだった。小繋まで行き、炎天下の中を4キロほど歩いて、小繋~小鳥谷間の中間地点まで来た。確かに雄大な光景ではあるが、架線に阻まれてロングは難しい。ふと今晩予約していた、花輪線大更駅前のユースが気になって時刻表を見ると、まだ16時前後というのに、本日中に大更までの到着が不可能なことが分かった。東北本線と接続する好摩の下り花輪線の最終はなんと18時47分、夏ならガンガン照りの時間帯にもう終列車が出てしまうのだった。

一瞬、顔が青ざめた。もう撮影どころではない。同行のファンから離れ、もと来た線路上を必死になって戻った。途中でD51三重連が通過、本日初めての三重連だが気もそぞろ。奥中山にユースがあることを思い出し、何とかここまでは到達したい、しかし奥中山は次の駅なのに、運悪く列車は数時間も先、もうここは、初めて経験するヒッチハイクしかない。恥ずかしそうに手を挙げるが、クルマは止まる気配もない。やっと止まってくれた大型トラックの運転手に懇願し、奥中山駅まで送ってもらう。
ところが駅で聞くと、ユースは駅からはるかに離れた高原の頂上に所在し、駅からは歩くしかないと言う。1ヵ月分に近い重い荷物を背負い、夜行連続でほとんど寝られず、しかも前日から何も口にしていない。水も尽きた。靴ずれの足も痛む。夢遊病者のようにフラフラになりながら、山道を歩き、ようやくユースに到着した。ところが悲劇はまだ待っていた。まさか宿泊客など居るはずがないと思っていたところ、近隣の林間学校生が大量に宿泊し、これ以上は泊められないと言う返事、思わず床に倒れそうになったが、拝み倒して、薄汚いバンガローの片隅にようやく泊めてもらえることができた。もうとにかく、体力の極限まで使い果たした、奥中山ユースだった