筆者の好きな写真の一つです。バックの山が墨絵のようです。同志社大卒業間際までゼミの研究室に拘束され、やっと開放された日から4、5日間出掛け、帰宅した翌日が卒業式の慌しさでした。
初年兵の年末は体調不良で、撮影行は中止。2年目の正月休みに出掛けたのが、花輪線を始めとする東北の雪の中でした。竜ケ森のヒュッテに1泊して撮影しました。天気は良くて快調でした。
総本家青信号特派員さんはユースホテル愛好者でしたが、私はステーションホテル愛好者でした。これは湯口先輩から教わった方法で、駅のベンチに寝泊りする方法です。先輩が50数回の日本記録保持者、私は35,6回で第2位です。寝袋、炊事道具、食料(米、缶詰、リプトンのオニオンスープの素など)、燃料(ガソリン)、夏は蚊取り線香、冬はカイロ持参です。ガソリンは4Lほどポリタンクに入れ旅客列車で運んでいました。今では恐ろしくてできないことです。荷物が多くて、当時56kgの体に40kgのリュックでした。駅の台秤で計りました。
翌年も出掛け、花森線でのホテルは竜ケ森ヒュッテでした。自炊せずとも食堂があり、大助かりでした。
盛岡発の臨時『銀嶺』号です。シーズン中、竜ケ森まで1日一往復でした。前々日に山田線でラッセル車を押していた盛岡区所属の86が、客車3両を曳いて山を登って来ました。
上の写真を撮影後山を下り、次の貨物を待っていると、二人連れが竜ケ森から線路中央を歩いてきました。近づいてきた人はなんと、ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんではないですか。全く偶然の出会いでした。次の列車撮影までの時間に、ヒュッテの食堂で撮った記念写真です。50年前のこと故に、肖像権無視で公開します。この日一日で彼等は消えて行きました。残った私は再度ヒュッテに泊り、翌日も撮影でした。
スキーヤーは全て列車で来ます。付近の道路は空いていました。降車がすみ、乗車を始めたのが上の写真です。ところが時間がかかってしまい、ドアーが凍りつきました。ヤカンの湯で溶かしてやっと出発でした。
スキー場へは右手に進み、ヒュッテを通り過ぎ、山に向かいます。
翌日は、岩手松尾、大更方面に向け、山を下りながら撮影しました。