ユースで巡った鉄道旅 -10-

久しぶりの本シリーズ、九州を切り上げ、つぎは中国地方へ行くこととしましょう。
中国地方の中でも、山陰西部は、関西から近いものの、なかなか行きにくいところです。本掲示板でもこの地方の報告は見たことがありません。陰陽連絡線が恐ろしく不便になったことも原因なのでしょうか。
40年前は、山陽本線には夜行が多く走り、山陰へのアクセスも、どの線区からでも容易に入ることができました。いまや不便極まりない木次線にも、広島から夜行急行が走っていたとは、現状と照らすと信じられないことです。
ユースの立地条件から見ると著名な観光地が少なかった故か、ユース自体が少なく、泊まったと言えば、大社と浜田だけでした。今回の浜田ユースは、商人宿のような古びた建物を改装した典型的な民営ユースでした。浜田駅から歩いて数分、市内を流れる川に沿ったところにありました。9月の残暑厳しい時で、部屋に西日がガンガン入り込んだのだけをなぜか覚えています。今は閉鎖されたようで、検索しても、この名は出てきませんでした。

ユースへ向かう前に、浜田機関区に立ち寄る。夕陽を受けたC57の前面と、煉瓦庫が鈍く輝く。浜田機関区には、最後のC54がいたことで有名だった。私は京都駅でC54を目撃したことはあるが、写すことはできなかった。製造わずか17両、福知山から浜田へ流れ、山陰を根城にした目立たないカマだったが、独特のスタイルは好ましかった。C51の後継機にもかかわらず、C51よりも早く昭和38年に全廃されている。それは、遠方へ撮影に行ける環境の整った、わずか3、4年前のことで、今なら瞬きするような時間差だが、その当時は、取り返しのつかない遥か昔の出来事のように感じた。

浜田に泊まった目的は、三江北線のC56の牽く貨物を撮ること。当時、三江線として全通しておらず、三江北線は浜原までだった。貨物は早朝に浜原へ向かい、小憩ののち、浜田へ戻るダイヤ。一番列車で終点の浜原に着いたものの、転車台もなく、期待のC56はワフ1両とともに、尻を向けて、静かに息をしているだけだった。

終点の手前、浜原~粕淵間で、三江北線は江の川を渡る。河原へ降りて、その頃でも数の少ないDC列車を写す。キハ25+キハ25+キハユニ26という、当時のローカル線の典型的な編成だった。訪れた年の翌年、昭和47年に三江北線は集中豪雨に見舞われ、この橋脚も崩壊してしまい、以後2年余り不通のままの状態が続いた。

目を山陰本線の西部(米子以西)に転じると、特急列車は「まつかぜ」「やくも」、急行は東京からの「出雲」など、数多くの優等列車が運転され、今では死語のような”亜幹線”がピッタリする線区だった。キハ82は全国区の特急用車両であり、人によって思い出は様々だろうが、私にとってキハ82と言えば、まず「まつかぜ」だ。デビュー間もない時期に、家族で鳥取へ旅行した時に「まつかぜ」に乗ったことがある。暗く陰鬱な山陰に舞い降りた、それは華々しい特急だと子供心にも感じたものだ。

一方、普通列車は、大まかに言って、米子~浜田はC57、浜田以西はD51だった。C57は集煙装置付きが多く、見栄えの点ではもうひとつだが、時として、このように重連も設定されていた。米子~浜田は、海岸沿いを走る区間はあるものの、なかなか撮影に適したところが少なく、これは地上時代の出雲市駅での撮影。手前の架線は一畑電鉄のもの。米子付近の普通列車には、荷物車代用のワキが連結されていたのが、大きな特色だった。この写真でも、C57の次位にワキが見える。

いっぽう、浜田以西になると、旅客はD51牽引が多くなるものの、海沿いの撮影適地が多くなる。撮影地ガイトも無い時代、五万分の一地図を見ながら車内からロケハンしたものだ。これは、朝の三見~飯井間を行くD51の牽く貨物列車。この区間で朝から撮ろうと思っても、浜田のユース泊では時間が掛かる。そこで利用したのが、米子~博多間の夜行急行「さんべ」、北九州と山陰という、それほど需要がありそうにも無い区間にも夜行が設定されていた。山陰均一周遊券の場合、自由周遊地域への入り込みは、山陰本線幡生経由も認められていたから好都合だった。

1 thought on “ユースで巡った鉄道旅 -10-

  1.  先日は東京支部の大宴会並びに撮影会に参加いただき有り難うございました。
     さて、私は陰陽連絡は山口線と伯備線を除いて乗車したことがありません。もっとも山口線が陰陽連絡と言えるのかどうかわかりませんが。広島あたりから夜行「ちどり」なんかが走っていたようですが、とうとう行き損なって乗り損ないました。三江北線もC56が居たことは知っていましたが、貧乏暇なしの時代でこれまた行けませんでした。ところで、C54は福知山線宝塚から大阪までC5410牽引列車に乗車したメモがありますが、撮ってないんです。総本家さん同様に浜田の庫に行ったら、庫員から「3カ月前に廃車になった」と言われがっくりしたことを覚えています。C54はC51の後継機でありながら、調子が悪かったのか他の理由があったのか17両で製造が終わり今では幻の機関車に思えます。ドームが接近して次のC55の一体ドームへの橋渡しの時期のスタイルでしたが、斜めのデフレクターとともに綺麗な機関車に見えました。当会の山科の大先輩が保津峡のC54の列車を写真展に出されていましたね。「まつかぜ」は1961年10月1日、あの全国に特急が走った日に宝塚で撮影しました。確か初日から故障で途中で運行を打ち切ったような記憶があります。本題のユースホテルですが、この地ではユースで泊まったことがなく、湯田温泉の国家公務員の共済保養所のようなところと呉線忠海の旅館ですき焼きを食ったことを覚えています。あとはC59,C62追っかけて兄の居た因島と己斐~横川間で野宿したことがあります。今度はどこになるのかシリーズに期待してます。

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