西のC59・C62全記録  (12)

昭和45(1970)年8月 電化工事の完了した呉線へ最後の撮影①

わがクローバー会の写真展も連日、賑わいを見せています。一段落したところで、通常の投稿に戻って、まずは「西のC59・C62」に掛かります。

前回、DRFCの合宿で呉線を訪れたのが昭和44(1969)年3月のこと、すでに昭和45年10月を目指して進められていた呉線の電化工事はポールの建植工事が進んでいました。それから一年余り、三原~海田市87kmの電化工事は順調に進み、昭和45年8月3日からは架線試験車が走り始め、初めて電気機関車が呉線に入線しました。各種試験が行われたあと、乗務員の練習運転も8月23日から行われました。ちょうど、夏休みのこの時期、例によって九州へ行く前後、最後の呉線訪問としました。呉線は、昭和45年10月改正を前に電化が完成していて、線内では電気機関車の乗務員訓練が、営業列車を使い、この時期恒例の“電蒸運転”が行われていた。626レ、EF58 18+C59 164 (昭和45年8月30日、安芸幸崎~忠海)

九州均一周遊券を握りしめて、急行「とも」に乗って、珍しく昼間の糸崎に到着した。列車待ちの間、機関区を覗いてみた。ガランとした庫のなかで、ちょっと薄汚れたC62、トラ模様のC50が、夏の淡い煙を出していた。

呉線に乗って、安芸幸崎へ。忠海方面に歩いた地点で構えた。キハ17+25+20の典型的な呉線DC編成も、いい記念として記録しておく。荷1043レは、EF58 85+D51 785に牽かれて来た。

すべて電蒸運転になっているのかと思ったが、続いて来た荷42レはC59 161の単機牽引だった。続いての623レも、C59 164の牽引、この場所は安芸幸崎下車、トンネルをひとつ越えた忠海寄り、初めて来たが、背景も良く左カーブで、まだポールのない時代なら、定番写真がバッチリ撮れたことだろう。いま現地をMAPで見ると、人家が建ち全く違った風景だが、さすがに背後の山の形だけ変わっていなかった。呉線の撮影は、この半日で終わり、糸崎に戻って急行「しろやま」で九州入り、例によって、均一周遊券を目いっぱい使っての九州旅行となった。

 西のC59・C62全記録  (12)」への1件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    呉線の蒸気機関車を見送ってから約50年後の糸崎機関区の現状を知りたくなり、2018年6月24日に糸崎駅のホームに降り立ちました。
    機関区あとは敷地もそのままに夏草の生えた電留線になっており、115系が1編成停まっていました。想わず「夏草や兵どもの夢の跡」の句を思い出しました。
    機関区のシンボルでもあった隣接する「山陽白色セメント」(1970年当時は「日本セメント」糸崎工場)の煙突は残っていましたが、この会社も前年の2017年2月に会社が清算され、現在は煙突も取り壊されているようです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください