西のC59・C62全記録  (11)

昭和44(1969)年3月29~31日 DRFCメンバーとともに撮影

広島のユースで一泊した翌日3月29日は、DRFC春の狂化合宿が、呉市の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく行われる日、九州で泥池にはまって風邪気味で体調は万全でないものの、メンバーとの再会を楽しみにして、ユース前からバスに乗り込み、広島駅へと向かいました。合宿の最終日の「安芸」狙いは、煙が期待できる安登~安浦の勾配区間へメンバーとともに向かった。と言うものの今まで、この区間で煙に恵まれたことは無かったが、今度は違った。北海道ヤマ線のC62重連も顔負けの凄い爆煙だ。見始めは違和感を覚えた「あき」のヘッドマークも、見慣れて来ると必須のアイテムとなった。体調は最悪だったが、それを吹き飛ばすシーンとなった。

広島から呉線への移動は、いつもなら夜行着、始発列車発だが、今回はユースで朝食も済ませて、8:29発のC59 161[糸]牽引の624レで出発、まず安登へと向かった。車窓から電化工事の進捗も観察しながら安登に到着、国道を安浦方面に歩いて、馴染みの撮影地に到着、下り「安芸」を待つ。ここは山側に、もうポールの建植も終わっていた。安芸川尻までひと駅移動して、安登寄りへ歩いて、海岸が見える高台まで移動、C59 164に牽かれた糸崎行き626レを撮影した。DRFCメンバーと合流したのは、この当たりのようだが、記憶にはなく、ガリ版刷りの機関誌「青信号」を引っ張り出して確認すると、Tさんの旅行記があって、周辺の状況が飲み込めた。この安芸川尻~安登は、安登に向かって勾配が続き、トンネルも3ヵ所ある。トンネルから飛び出した673レ、D51 489[糸]の牽引。付近は段々畑もあって、簡単に高台へ登ることができる。向こうには、川尻の集落と海を望むことができる。C62の牽く汐留行き荷42レと、(右)勾配を下って行く広島行きDC急行「吉備」。

 

そして本日の本命、上り「安芸」が16‰の勾配を上って来た。ポールがC62の背後にも建っていて、一部を修整除去している。16時前だが、本日は撮影終了、みんなで呉に戻り、バスで「音戸ロッジ」へ向かった。

DRFCメンバーが「音戸ロッジ」に集合して、合宿が賑々しく行われた。記念写真は、掲載許諾なしでご了解を。

ここからは翌日、3月30日。深夜まで騒ぎ過ぎて、出発も遅くなった。この日、最初に撮ったのは、呉に11:37に到着する下り「安芸」。今日はC62 16の牽引。

初めて安浦で下車し、風早寄りに歩く。築堤上でC59 161牽引の626レを撮影。朝から曇り空だったが、ついに雨が降って来た。風邪気味の身体は、とにかく寒い。たちまち戦意喪失、安浦駅で荷42レの発車を撮っただけで、メンバーから離れて、先に一人で宿舎に帰った。この日撮ったのは、わずか6駒だけで、戦闘的?な自分に似合わず、心身ともに衰弱していた。宿舎でも騒ぐ元気はなく、ひとりで寝床に入っていた。さらにその翌日の合宿最終日31日、呉駅には、DD11 8[呉]が入換中。

みんなで安登に向かった。例によって「安芸」をとらえたのが冒頭の(右)の写真、振り向くと、線路端で撮影する面々がいた(上)。C62の次位のハネは、オハネフ12であることも読み取れる。本命を撮り終えると、もう粘る気力はなく、メンバーは、安浦、須波と数人ずつで下車して行ったが、私一人は、そのまま普通列車を乗り続けて、やっとその日に帰宅することができた。

 西のC59・C62全記録  (11)」への12件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    当時の呉線の乗り降りと撮影には『ダイヤ式時刻表』を利用していました。これは初版発行が昭和11年9月25日の広島市己斐の「鉄道ダイヤ社」が発行したもので、広島駅構内の売店で販売していたものをたまたま見つけました。購入したのは昭和42年10月1日発行の改訂53版でしたが、東北地方から九州まで網羅しており、当然のことながら特に中国地方は詳細に掲載されていて、呉線も全旅客列車、全駅の発駅時刻が記載されていました。
    購入したものの鉄道関係者以外の一般の人が、このようなものを駅の売店で買ったのか今でも疑問に思っています。

    • 快速つくばね様
      広島駅の売店で列車ダイヤが販売されていたとは知りませんでした。全国版ですから、撮影には最強ですね。まだ「鉄道ダイヤ情報」も発刊されていない時代、私は各管理局へ手紙を出して、列車ダイヤを送ってもらいました。もちろん返信切手も同封するのですが、往々にして重量オーバーすることもあり、その時はちゃんと差額の切手も貼ってもらい、丁寧なところは一文も入れて返送されて来て、心遣いに感謝したものです。ドサッと分厚いダイヤが届くと、さっそく彼の地に思いを馳せたものでした。

    • 快速つくばね様
      驚きました。現在と違っていかに鷹揚な当時とてこんなものが売られていたとは、まさに青天の霹靂ですね。全く知りませんでした。知っておれば必ず買い求めたと思います。いわゆる正式の「列車ダイヤ」では無さそうですが、内容はほぼ同じですから、駅や保線等の関係者が使っていたダイヤではないでしょうか。とはいえ撮影用資料としてはこれで十分ですね。
      総本家青信号特派員さま
      やはり情報請求や資料を尋ねておられましたか。私は例の北海道寒中見分録のネタになった昭和44年2・3月の遠征に際して、旭川鉄道管理局へ厚かましくも同様のお願いをしました。単に撮りたいだけと思われないないよう「鉄道クラブで研究したい」というようなもっともらしい屁理屈を並べたてていたように思います。今思うと臆面もなく恥ずかしい限りですが、ダイヤに関心があった小生としては全くのウソ・偽りではなく、送られて来た同局管内のダイヤは、列車運転情報のバイブルとして良い教材になったと感謝したものです。当時の国鉄現場は大学生の青二才が無理を言っても、真剣にまた親切に取り合ってくれましたね。旧き良き時代だったとしみじみ思います。

      • 1900生様
        この時刻表には、起点駅からの距離程は記載されていましたが、駅間の距離や標準勾配などが記載されていなかったので、業務用として使用するのは無理だったと思います。それにしても広島近辺の人はダイヤグラムを読むことができたのでしょうか。表紙を貼り付けます。

        • 快速つくばね様
          ご教示有難うございました。いよいよもって不可解な時刻表(ダイヤ)ですね、一応発行元は「ダイヤ社」なる会社名になっていますが、どうも個人のように思えます。個人ならどうして手に入れられたのか、しかも全国規模で。国鉄関係者から入手したのであれば、業務に必要な項目は網羅されているはずですね。まさか手書きで一から作成したとはとても思えず、謎は深まるばかりです。それにしても買っておきたかったので残念至極です。

  2. 総本家青信号特派員様
    安登ですか!懐かしいですね。私も安登は何度か降りてます。ほとんど午前中は安浦方で下り安芸まで撮影して、午後は安芸川尻方に歩いて移動して上り安芸等を撮影してました。1枚目の場所は私が安芸のヘッドマークが付いた初日(68.12.08 c6215牽引)に撮影した場所と殆ど同じ立ち位置ですね。私は残念ながら手ブレしてしましたが。上り安芸で何が付いているか確認しようとしましたが、上りは付いてませんでした。翌日から上下列車に付いたようです。DD11は早朝呉から広に2両のC62と共に回送されて来たのを見ました。
    後日ヘッドマークについて糸崎機関区に問い合わせた時の返信です。
    今時こんな事したら何言われるか分かりませんけど。長文失礼しました。

    • 田中様
      コメントや貴重なはがきを拝見させていただきました。「安芸」のヘッドマークは、ヨンサントオ以後に取り付けられたと聞いていましたが、明確な日付は不明でしたが、田中様の証言ではっきりしました。安登は勾配区間の頂点にあって、上り下りに合わせて、行ったり来たりできましたが、私は歩くのも面倒で、もっぱら安浦側で撮っていました。私も蒸機の運用を調べるのに、よく機関区へ往復はがきで問い合わせしました。電話で聞くこともできましたが、そこまでの勇気もなく、いつも葉書の到着を首を長くして待ったものです。実にのんびりした時代でしたが、丁寧な返答に、私も今でも葉書を保存しています。

  3. 総本家青信号特派員様
     いつ見ても、呉線のC59やC62が牽く急行「安芸」は圧巻ですね。
    狂化合宿での懐かしい面々、皆若いなぁ! はち切れそうな若さが伝わってきますね!

    • マルーン様
      コメント、ありがとうございます。はい、大型蒸機が盛大な煙を吐いて走っているのは、絵になります。合宿の様子、懐かしい面々ですね。私も風邪で高熱が出ても、ずっとみんなと一緒でしたから、その情熱はすごいものがありました。鬼籍に入られた方、また今は活動に参加されていない方もおられますが、皆さん元気にされているでしょうか。この歳になると、昔の仲間の消息が気になります。

  4. 皆で夕食・朝食とも音戸ロッジの米ビツを空っぽにして、列車待ちの間プルプルさんと「千福」を飲んで線路端の田んぼを走り回ってもちっとも酔わなかったのを思い出しました。二級酒だったからでしょうか。

    • 井原様
      食事風景の写真に、まさに空っぽになつた米ビツが写っていますね。「青信号」を見ると、合宿記を書いたTさんが、食事の様子の詳細な描写があり、私が、わさびに醤油をかけて、メシ一杯を食べたとか、書かれていました。

      • そうそう。おかずが少なかったですね。私も真似しようとしましたが、米ビツがあっという間に空っぽになっていました。
        また、パーマンさんが「須波」を「スバ、スバ」と言って、「スナミです」と言っても直らなかったですね。

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