昭和42(1967)年3月 九州行きの初日に呉線へ
またまた投稿が途切れてしまいました。言い訳無用、とにかく専念することにします。高校2年生の終わりの昭和42(1967)年3月、いままで夜行日帰り撮影から、一挙に2週間に渡る九州一人旅に出掛けることになりました。例によって、最初の立ち寄り先に糸崎を選び、3回目の呉線行きとなりました。▲14日間通用の九州均一周遊券を握りしめて、新大阪から博多行き「第2つくし」に乗り込んだ。新大阪9:50発、糸崎13:45着、通い慣れた駅西側の踏切を渡って、糸崎機関区へ向かった。
▲広島発糸崎行き626レの到着を、機関区から撮影。C6225の牽引。
▲しばらくすると626レを牽いて来たC6225が給炭線に停車した。
▲16:22に荷物47レか発車、西日に照らされて、ドレーンを吐きながら発車して行った。牽引は、C6241[広] 山陽本線の完全電化で、広島運転所(旧・広二)から広島機関区(旧・広一)へ移って来た。
▲そのあと糸崎16:35発の623レに乗り、呉線の乗り鉄しながら、広島へ向かった。実は、この時も、C59の去就が心配だった。山陽本線が電化3年目にして、ようやく蒸機牽引の列車がなくなり、電機・電車となった(ただ、回送を兼ねた糸崎→広島の蒸機列車は残る)。そのため、今まで山陽本線で通勤時に列車を牽いていたC62が、糸崎へ転属して、C59を追い出すのではと噂されていた。事実、3時間滞在した糸崎区では、C59を見ることはなく、“やっぱり”の思いがあった。ところが、623レに乗って、安芸幸崎で交換した荷物列車を牽いていたのはC59161で、安堵の胸を撫でおろしたものだった。
総本家青信号特派員様
私の3回目は、2回目から6か月後の1967年10月15日に米子から夜行の「第2ちどり」で広島入りをしました。前日は伯備線の布原信号場から備中神代間の紅葉の阿哲峡を歩きました。
広島から始発の622列車に乗車し、坂で「音戸」と交換の後、小屋浦で下車し天応まで歩き、C59 162の牽く921列車や「ななうら」などの朝の上り列車を撮影しました。呉からは恒例のC59 161の牽引する624列車に乗車し、初回に撮影できなかった下り「安芸」を撮るため風早に向かいました。
今回は、糸崎機関区をゆっくり撮影するスケジュールでしたので、訪問すると先ほどのC59 161と整備中のC59 164が扇形車庫の外に駐機しており、形式写真を始め各種の部品を撮影し、C59三昧の一日となりました。
快速つくばね様
内海をバックにした綺麗な写真ですね。C62の「安芸」だと拝察しました。私は番号ばかり追いかけて広島方面の記録が多くこの様な写真は撮れていません。ハエたたきや左の小屋ものんびり感を感じます。
準特急様
コメントありがとうございます。
「朝の上り列車を」と記述しましたが、「朝の下り列車を」の間違いでした。
小屋浦に到着するC59 162の牽く921列車です。
快速つくばね様
遅れての返礼、失礼します。つくばねさんも夜行「ちどり」に乗っての広島入りでしたか。あの列車は、上下とも撮影には便利な列車でした。今では考えられないような径路の夜行でしたね。
見せていただいた写真は、風早で撮られたものでしょうか。いいですね。なら、準特急さんのコンテスト入賞作品の安浦~風早のカラーと同じ場所ではないでしょうか。