横浜は2023年時点でおよそ人口が377万人あり大都会である。昔は神戸とともに2大貿易港として君臨した。一方、我が国始めての鉄道が明治5(1872)年新橋(汐留)-横浜(桜木町)間に開通したことは誰もが承知のことである。人口は2番目であるがその印象は東京の影に隠れてもう一つ薄いような感じがする。横浜の有名な観光スポットとしては中華街、山下公園、三渓園等があるが京都、東京、大阪と比べても少ないように思う。歌の世界では美空ひばりの出身地であり、「赤い靴」など物悲しい童謡があった街である。青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」や石田あゆみの「ブルーライト横浜」などよく知られた曲が多数ある。石田あゆみは女優、歌手でフィギュアの選手であり、姉は同競技で全国3位になったことがある同志社大学卒業生である。最近のデジ青では駅弁が賑わっているがここは崎陽軒のシウマイである。
さて、本題の市電の話であるが、大学時代の4年間実家が横浜にあった関係で学校が休みの間に時々暇を見ては撮っていたものを今回発表させていただく。従ってかなり記憶が薄れて街並みも大きく変化したので一度かつての場所を見てみたいがこの猛暑では無理である。総本家青信号さんお得意の新旧定点撮影もできず全体に曖昧な所もあるがお許しを願いたい。加えてカラーは1枚もないことをお断りしておく。
横浜市電は明治37(1904)年7月に横浜電気鉄道により開業。途中、大正10(1921)年に横浜市が買収し、昭和47(1972)年3月に廃止されるまでの約70年間市民の足として活躍してきた。従って、70年の歴史のほんの最後の5~6年間の記録であるが、それでも廃止後50年を経過しており街の風景や人々の姿は今とは変わってしまっているので記録として報告する。
横浜市電は昭和40(1965)年から撮影を始めたがいつも見慣れていた京都市電に比べて今ひとつ洗練されていないように感じた。また、都電のように車種が多くないことも面白みに欠けていた。ただ、嬉しいことに単車がゴロゴロいたことである。
<単車群>
それではその単車から見て行きたいと思う。最初はダブルルーフであった400型である。この車両は32両あり、昭和41(1966)年に廃車されて形式消滅しているのでギリギリ間に合って撮ったことになる。1965.12.21元町付近⑤系統419号▼
500型は昭和3年(1928)年に東京瓦斯電気、蒲田車両、雨宮製作所で20両ずつ計60両製造された。戦後、15両が600型に改造されたが、昭和44(1969)に廃車となった。これだけの両数があったので市内の至る所でこの500型を見ることができた。この有名な麦田のトンネルを撮っていないと横浜市電を撮ったことにならないと言われた名所である。1967.2.11雪の日の麦田町-元町間の専用軌道を行く⑤系統539。
600型は戦後空襲で焼失した500型を復旧した車両で窓が二段式となっているのが特徴である。1966.8.17反町停留所を出た①系統603号弘明寺行き。▼
700型は戦前に200型と貨車を改造して作られたとのことであるが木工に秀でた職人がいたとかで木造のようだが定かではない。昭和42(1967)年に廃車となっている。1966.7生麦車庫で廃車直前の717号▼
この他に戦後の混乱期に最後の単車800型がつくられたがお目にかかることはなかった。
<ボギー車群>
1000型は横浜市初のボギー車で昭和3(1928)年震災復興事業で20両製造された。馬力が小さいため、平坦な路線を中心に運用され昭和45(1970)年に廃車された。
1969. 市庁前を行く②系統三渓園行き1019号。この付近に平和球場があり、現在は横浜スタジアムとしてDeNA横浜ベイスターズの本拠地になっている。市庁は現在は関内地区とみなとみらい地区の結節点に移転新築されている。▼
1967.7.31 杉田線廃止の最終日の⑬系統桜木町行き1005号。杉田▼
正月を迎えると停泊中の舟から一斉に汽笛が鳴り、新年を新たに感じたものである。漁船等は大漁旗を挙げて港横浜の正月を演出してくれた。ゴチャゴチャして見にくいが桜木町駅前の橋の上を行く1000型である。バックは海であるが、現在はみなとみらい地区になっており想像できない風景である。1969.1.2桜木町駅前▼
1968.8.17 東海道線の見える反町-青木橋あたりを行く⑫系統1019号葦名橋行き。▼
1100型は昭和11(1936)年に新式中型ボギー車として梅鉢車両にて5両製造された。クロスシートが装備され「ロマンスカー」と呼ばれたこともある。昭和42(1967)年ワンマン化改造されたが、1972(昭和47)年の市電全廃まで活躍した。
1969 市庁前付近の公園をバックに走る④補系統麦田町行きの1102号▼
1150型は和製PCCを目指した1500型の使い難さ経費増などの反省から従来の考えに戻して新たに製造したものであり外観は1500型に類似している。1952(昭和27)年から1955(昭和33)年にかけてナニワ工機、宇都宮車輛、交通局で22両製造され1972(昭和47)年の市電全廃まで使用された。1967.7.18 かつては海水浴場があった間門付近を行く⑤系統洪福寺行き1166。▼
1967.7.31 杉田線最終日の装飾された最終滝頭行き1166号。▼
1200型は1942(昭和17)年に製造された3扉ボギー車。1967.7.31桜木町駅前を行く⑬系統杉田行き。船と市電が写るのも横浜らしい。 ▼
1300型は終戦直後の混乱した昭和22(1947)年に輸送力増強のため30両を製造。車体も軽く、性能も安定しており、高馬力であって③、⑦系統のでの使用が多く最後のツーマン車として昭和46(1971)年まで使用された。1969.1.2 元町停留所の②系統葦名橋行き1317号。後方右に入った所がファッションの元町商店街があるが私には全く縁がなかった。▼
1400型は昭和24(1949)年木南車輛で10両製造され昭和45(1970)年まで在籍した。ノーシル・ノーヘッダーの丸みを帯びた外観が特徴。▼1967.7.31杉田停留所で発車を待つ⑬系統1405と後続の1403▼
1500型は300型の代替として1951(昭和26)年に製造。和製PCCカーだが吊り掛け駆動の間接制御車である。台車に防振ゴムを使い振動、騒音を少なくし、電機と空気ブレーキを使用するなどした。しかし、現場の評判がよくないのか20両の製造に終わったが、市電廃止の日まで使われた。1967.7.31杉田停留所で折り返す⑬系統桜木町駅前行き1509号。▼
1969 吉浜橋付近の④系統三渓園前行きの1513号▼
1600型は昭和32(1957)年交通局で6両製造された最後の新造中型ボギー車。後部乗降口を中央に移したバス型配置で出入り口を大きくとり、4枚折り戸を採用。昭和45(1970)年に廃車。1967.7.31オート三輪が走る国道16号杉田停留所の1603号。▼
次回はその2として滝頭にある横浜市電保存館を紹介して終わりにする。
準特急様
たいした写真ではありませんが、色見本のため投稿します。高島町交差点の1150型です。右端に写っている市営バスも同じ塗色だったのですね。
快速つくばね様
早速ありがとうございます。市営バスも市電もこの色でした。それにもまして東横線の青い色も見事にキャッチされています。ここも地下化されてだいぶ時間がだったので貴重なツーショットと思います。
準特急様
「横浜市電」、以前から投稿の準備をされていること、お聞きしていました。待望の公開、興味深く、拝見しました。私も路面電車は大好きで、各地で撮っていますが、ただひとつ横浜だけは、訪れたのは横浜駅や桜木町駅などの駅前だけで、市電が走るような市街地は行ったことがなく、写真は一枚もありません。今回の投稿で、車両の陣容など理解できました。たしかに、京都市電と較べると、贔屓目もあって、パッとしない感じですが、路線は碁盤の目状で、循環系統が多いなど、京都市電との共通性もあります。今の横浜は、巨大な都市となりましたが、市電が走っていた時代は、京都とほぼ同じ規模で、車両数や路線網も、ほぼ同じで、親しみを感じました。
秋に、準特急さんも行かれる、横浜での会合で、時間が許せば、一度、市電跡も歩いてみたいです。
猛暑の中、室内にこもっていても熱中症の危険があるということで総本家さんもどうぞ鉄道熱中症以外に病気の熱中症には十分に注意なさってください。この度もあまり見たこともない市電の話を総括的にコメントしていただき有難うございます。横浜市電は長谷川弘和さんという歯医者さんが有名な方でしたが、先日、その次あたりに有名な方に市電保存館で話を聞かせていただきました。古い単車のことを知っておられる方も今は少ないそうです。関西や京都の方はあまり興味がないことはわかっていますが、デジ青の場を利用して発表させていただきました。
総本家青信号特派員様、皆様
横浜市電の全体のイメージがわかるように路線図を貼り付けました。なお、横浜市電のゲージは1372ミリで都電、函館市電、東急世田谷線、京王線と同じです。以前は全部か一部かわかりませんが京急、京成もそうだったと聞いております。
申し訳ありません。1372ミリゲージには当然のことですが京王線と相互乗り入れする都営新宿線を忘れていました。
準特急様
横浜市電の記事ありがとうございます。横浜に移り住んでもう長くなりますが 横浜市電とは縁がありませんでした。市内を車で走る機会も多くあり 写真や路線図を拝見しここを市電が走っていたんだと認識を新たにしています。滝頭の市電保存館の紹介をお待ちしています。
INUBUSE様
コメント有難うございます。
横浜在住で路面電車に造詣の深いINUBUSEさんは以前にデジ青で発表されたことがあると思いますが私も市電保存館に先月行ってきましたので早速報告させていただきます。生麦線の最終とか中央市場線などまだありますが横浜の市電など見たこともない方も多く多分興味のない方がほとんどでしょうから電車保存館の報告で終了します。
準特急様
本当に暑い毎日が続きますね!どうかご自愛くださいますように!
さて、横浜市電ですが、私の思い出はその昔、受験の際に母の親戚宅にお世話になった際、確か野毛の辺りだったかと思うのですが・・おばさんから休む際に「朝早くから市電が走るから、その音が気になるかも・・」と言われたことです。市電の音は確かに記憶に残っていますがその他の記憶は・・
つくばね様のカラー写真で市電と市バスは同色、市バスの色は現在でも同じですね。
それにしても準特急様のご活躍ぶりには頭が下がります。
マルーン様
マルーン様こそ猛暑の中のコメント有難うございます。学生時代はたまに横浜市電も撮っていましたがまさか保存車輛まで撮ってあるとは思いませんでした。当時は横浜市電の話をしてもお一人を除いて相手にされませんでした。あとで気づいたことですが電車少年であったあの乙訓の老人様がデジ青の2012.2.12に「横浜にチンチン電車が走った時代」と称して投稿され長谷川弘和さんのJTBキャンブックスのことや吉川文夫さんとみなとみらい線に乗りに行った話などが書かれていました。乙訓の老人様がご存命であったなら「ワシはあこは行ったとかあれはまちごうとる」とか言われたでしょうね。
横浜市電に関して、役立たずで恐縮でしたが、横浜市電の権威である、長谷川弘和さんの写真を、山科人間国宝さんが持っておられました。転載させていただきます。
昭和33年撮影、横浜公園~花園橋の1600形です。準特急さんの解説を読むと、横浜市電最後の新造車とあり、前部中央窓が大きく、初期の紺色もよく似合っていますね。6両だけの製造で、13年間しか走らなかったそうで、京都市電2000形とも歴史が似ています。
総本家青信号特派員様
山科の人間国宝さんの所にあったとは驚きです。それを総本家さんが見つけられたとはすごいネットワークだと思います。電車少年であった沖中さんも横浜市電の大家長谷川さんのことをデジ青でふれられていました。私など横浜市電はデジ青では閑古鳥が鳴くのは覚悟していましたが、あの米手作市さんからも例の「こんなんあるでー」と投稿していただきました。嬉しい限りです。折り戸扉とか正面大窓とか魅力的に見えましたが、その扉位置の関係などから少し早めに引退しました。
続いて、長谷川弘和さん撮影の1150形1162号、滝頭車庫、昭和28年8月の撮影です。最大の特徴は、屋根に突き出たベンチレーターで、これなら確かに走ると空気の入れ替えが進むと思います。長谷川さんの本には、2両が塗装試験車として「茶と黄色を混ぜたブラウン色に塗られていた」と書かれ、この色は、準特急さんが市電保存館で「見たことがない色」と書かれた1500形と同色と思われます。
総本家青信号特派員様
詳細な情報を有難うございます。先行(1951年)の和製PCCの一種1500型はその新機軸もむなしく従来型思想の1150型(1952~1955年)に戻って製造されました。外観上1150型は屋根の通風器があるくらいで1500型とは殆んど同じものでした。黄色にブルーの色彩よりは試験色の方が良さそうに思います。1150という形式の付け方も何かありそうです。