『通勤形電車』の変遷    河 昭一郎様ご寄稿 

河 昭一郎様より鉄道雑誌に掲載予定で編集された表題の論文をデジ青用にご寄稿頂きましたので掲載いたします。
ただ、頂いたのは出版用に割り付けられた完全原稿のため、そのままでは掲載できません。一旦ばらしてデジ青仕様に組み替えましたのでご了承下頂きます。内容・文章には手を付けておりません。併せて以前に投稿された藤本哲男さんの73系に関する記事もご覧下さい。

ロクサン形がルーツの通勤電車 クモハ73030 1962-1-4 京都

『通勤形電車』の定義
朝夕の時間帯に首都圏を始めとした都市圏で、通勤客を満載して走る電車列車を『通勤電車』と呼ぶようになったのは何時頃からだっただろうか?
その確たる記録は見ないが、それは多分日本が太平洋戦争を経た後に復興に向った頃だと考えられる。
戦争も終盤になった頃、首都圏では多くの電車が戦禍に巻き込まれたため極度の車両不足に陥り、それを補うため急ピッチで車両補充が行われ、いわゆるロクサン形電車が通勤輸送に大活躍した頃とも重なっている。
やがてそれ等の電車が『通勤形電車』と言われる事となるが、1953(昭和28)年に日本国有鉄道工作局が刊行した『電車形式図』にはその標記が無い。
その次に発行された日本国有鉄道臨時車輛設計事務所編集・オレンジ色表紙の1960(昭和35)年版『電車形式図』の『まえがき』欄に近距離用直流旧形電車と分類された中に通称と断わって『通勤形』と明記され、更に『たて形腰掛』と説明が付されているのみである。
従って我々がその定義としていた縦型座席(ロングシート)で片側4扉の電車と限定している訳では無かったが、上記のロクサン形電車がその典型とされるのも正しい。

始まりは4扉車の誕生

さて、上記の様な事柄を踏まえると我々がロングシートで片側4つドアのロクサン形を通勤電車の起源とするのは自然と言えよう。

クハ79056 1962-3-27 京橋

このロクサン形は先にも述べた通り、終戦間際の窮状の中から生まれた電車で、その何よりの特徴は無駄の無い車体設計に加えて大量輸送の混雑回避に最適な4扉化を行った事であった。

4扉車の元祖クモハ31006 1962-3-27 京橋

これ等は、後に新性能電車の元祖として1957(昭和32)年に登場したモハ90(後の101系)にそのコンセプト/基本精神が受け継がれ、今に至っている。

因みに、この4扉については実はロクサン形が元祖ではなく、大阪地区の2扉車であったモハ43の事故車(43028)を1943(昭和18)年2月に試作改造し、モハ64028(後のクモハ31002)としたものが記念すべき初の4つドア車であった。これに続いてモハ43やクハ58を改造したモハ64(13両)やクハ85(13両)が現れたが、それは戦禍による車両火災など車両不足が原因の輸送量逼迫に対処するため、2扉車のモハ43やクハ58を試験的意味も含め4扉化したもので、これが4扉63形の量産に繋がったものであった。

《ところで、

クエ9400 1962-1-4 高槻電車区

これ以前の4つドア車については1942(昭和17)年に製造された鶴見臨港鉄道のモハ220形2両とクハ260形2両が有り、これが日本初とされるが、こちらは車長が17.5メートルの典型的私鉄規格であった。因みに、この鶴見臨港鉄道は1943(昭和18)年7月1日付けで国鉄に国策買収されたため、日本初の4 つドア車の記録も国鉄に吸収されたとも言える。

クエ9420 1967-10-10 三鷹電車区

余談だが、筆者とこの車との初対面は、この内の1 両が救援車のクエ9400に改造されて高槻電車区に 居た時であったが、短い車体に窓と扉が交互に連続して並ぶ姿には異様さを感じた。なお、その同僚は 東ミツにも配置があった。》

ロクサン(63)形の登場

以上のような4扉車の実験を通してその実用性が認められた結果、切妻で蒲鉾スタイルのロクサン形(63形)の製造が本格的に始まったが、時は太平洋戦争が終わりに近づき物資や人材が逼迫していた1944(昭和19)年の事であった。

このように悪条件の下で製造が開始された事もあって、同年内に出場した63形車両の合計は22両(モハ63×14、サハ78×8)に止まったが、それが後の大量生産のルーツで、同時にそれはまた輸送量が逼迫した中で如何にして経費や工期を押さえながら大量輸送を実現するかの命題に答えて急場凌ぎの車輛が出来あがる瞬間でもあった。

63形の面影が残るクモハ73157 1963-6-23 菊名

時が丁度戦時中だった事もあって、バラック建てを連想させる言わば急造の63形の中には部品や資材の不足で、完全な姿で出場出来なかった車両が続出し、特に電動車の未電装出場が目立ったため、当初の計画に対して足を引っ張る事となった。

ともあれ、これら63形は車長が20メートルで4扉の設計が画期的で、乗客の乗り降り時の混雑が緩和され大量輸送には大いに貢献出来たと思われる。また、エアコンの無かったこの時代、夏の通風を意識してグロベンを採用した先駆車両で、窓についても次の様な新設計が成された。従来の上段3分の1が固定された窓は立席者にとっては風通しが悪く、過去の試作実験も踏まえて上下段を可動とした3段窓は、混雑時の車内通風効果を高めるために効果的で、当時の夏の車内を快適にした。

《ところで、画期的な設計と思われたこの3段窓は、上中下に3分割された窓の中段が固定されており、火災時には人の脱出が出来ず思わぬ障害となった。

さらに、車体等の軽量化と簡易化を追求した結果、耐火性不足を招いた車体は、火災時の命取りとなって、1951(昭和26)年4月24日に発生した桜木町火災事故で大量死を招いたのが残念でならない》

73系への脱皮と72系のデビュー

63形は桜木町事故の時点で800両超に達していたが、事故の反省から至急改造する必要性が生じ、主だった点としては貫通扉と幌の整備、3段窓の中段可動化、パンタグラフを含む屋根部の絶縁強化の他、室内の難燃化や非常ドアコックの増設等の緊急改造工事が行われた。

63形改造のモハ72017 1962-6-18 京都

この改造工事は大掛かりな物となったため、車両の形式も改められて出場車には新たにモハ73の形式が与えられた。
なお、63形を改造する際にはモハ63⇒モハ73の他、モハ72、クハ79及びサハ78への改造も行われており、これらの 63形から改造された車輛については73系と呼ぶのが相応しい。

この63⇒73の改造工事では幾多の試作が行われ、性能変更やデザインの変更を重ねたが、それが一段落した1952(昭和27)年以降、基本的にこの 流れに沿った後継車として新たに72系とも言える新製車がデビューする事となった。

72系のクハ79308(右)  1962-3-19 東神奈川電車区

この72系は同時期の70系にも準じた設計となっており、それ以前のロクサン形の流れを汲む73系とは一線を画した電車で、サハは製造され500 番以降のモハ72と 300番以降のクハ79が存在し、夫々ロクサン形が起源の車両とは区別された。
以後、この72系は増備に次ぐ増備が続き、モハ72の500番台については1957(昭和32)年までに全278両、クハ79の300 番台車は翌年の1953(昭和28)年から1956(昭和31)年までの間に全部で 179両が製造された。

70系に準じた72系のモハ72593 1986-2-9 京都

別形式にも見える79927全金車 1962-8-15 京都

これに続く両形式については920番~の全金属車体となって、そのノ―シル・ノ―ヘッダーの滑らかな車体はロクサン形以来の3段窓を廃して2段窓とし、すっきりとした車体となっており、73系や72系とは見違える程の進化を遂げ、夫々モハ72が44両、クハ79は33両が投入された》

72・73系の活躍期

73系と72系の活躍期については限定が難しいが、桜木町火災事故以降で日本が高度成長期になだれ込む時期と重なる昭和30年代から新性能車の台頭で発生した多数の余剰車のバラマキ先に窮した結果、典型的地方閑散線区である仙石線にまで押し込まざるを得なくなった1966 (昭和41)年頃までの期間と見る事が出来る。

京浜東北線・クモハ73119先頭 1965-3-20 川崎―蒲田間

此の時期72・73系の活躍が目立ったのは主として関東圏の各路線だったが、中でも所属車両の9割以上が72・73系で占められていた京浜東北線担当の3電車区(東モセ、東カマ、東ウラ)がダントツで、全盛期の終盤に当たる

総武線の72系クハ79376他 1964-3-6 秋葉原

1964(昭和39)年4月時点の所属車両合計は639両に達し、この時点で全関東圏の72・73系1138両の6割弱を占めていた。この京浜東北線では東モセ、東カマの5連+3連の他、東ウラの8連基本の運用が有っが、同線の南部区間では5連の基本運用を見る事はなかった。

これに続く72・73系の活躍の場は総武線と常磐線で、夫々千ツヌが200両、東カノが117両を擁して8連での運用を行い、一方の東マトについては121両の配置があって、10連運用が行われた。

一方関西に於いてもこの72・73系のルーツである63形一族が配属されていて、古くは1948(昭和23)年3月時点でモハ63が大ミハX4両、大アカX5両、大ヨドX14両あり、他に大ヨドには3両のサハ78が存在した。

西成線のオレンジ色クモハ73他 1961-4-8 大阪

上記の通り関西では城東線・西成線に集中的に配置され、合計26両の少数配置であったが、後に関東からの都落ち車がクモハ51等、大阪形国電の牙城である京阪神~西明石にまでも雪崩れ込むまでは全体としては72・73系は終始マイナー派であった。

新性能車モハ90の登場

山手線内回り101系8連クモハ101-161先頭車1967-2-17五反田

通勤形電車の72・73系が首都圏の中央線、山手線、総武線、常磐線、京浜東北線から次々と転出する中、それ等の各線には交代要員としてのモハ90の投入が始まり、72・73系との混在運用を経て順次車両の入れ替えが行われた。
なお、このモハ90は1958(昭和33)年に最初に中央線で運用が始まったが、その際編成を全Mとしたため、地上側の変電設備の能力が間に合わず、やむなくM車を間引かざるを得なかったと言う逸話が残っている。

余談だが、この時に間引かれたM車は『中古車』として西下し、1961(昭和36)年3月1日に開通した大阪環状線に再利用された。

《1960年代になると、首都圏の72・73系の活躍は各線で終了が相次ぎ、最初に101系が投入された中央線では1960(昭和35)年11月21日には101系化を完了した。続い1963(昭和38)年10月1日には山手線が101系化されたが、その後同線は1969(昭和44)年4月25日には駅間距離の短い路線特性に対応した103系への車種交換を完了した。
それに続き総武線も1969(昭和49)年4月8日には101系化が成され、新性能車の配置は、その後は常磐線、京浜東北線へと波及した。その間余剰になった72・73系は専ら東京近郊の支線である南武線、横浜線が吸収する形となったが、1972(昭和47)年に入ると追い立てられるようにこれらの線区でも新性能車の配置が有って72・73系は更に次の新天地へと押し出される事となった》

中央線の101系 1967-9-23 新宿

さて、このモハ90だが、それまでの電車とは全く違った性能を有しており、その名も『新性能車』と呼ばれてそれまでの電車とは区別され、形式称号も新方式が採用された。

形式番号は、3桁に改められると同時に『系』と言う概念を取り入れる事となり、その最初の形式としてモハ90は101系と改称された。在来車両と101系との大きな相違点はモーターの小型化とカルダン駆動方式に有り、モーターが小形軽量化された事によって台車への装着が可能となったため、旧来の車軸への吊り掛け方式による諸問題、中でもロングレールでない区間でゴツン、ゴツンと響く乗り心地の悪さを解消する事が出来た。また、M車については2両を固定のペア編成として空気系統と電気系統の機器を分散搭載する方式としたため、2両で1個のパンタグラフとし、いわゆるMM’方式が誕生した。

更に斬新だったのは、片側4か所のドアの幅を従来の車輛が1100ミリだったのに対して1300ミリに広げた両開き扉とした事で、これによって乗客の乗り降りがスムーズになり、より一層の通勤形化が実現した。

《なお、この両開き扉方式についてはモハ90以前に試作実験が行われており、既に1941年に1両のみ試作改造された車両があった。当時はそれまでの木造車を鋼体化する改造が進められており、その内の1両が実験に供され17メートル級車体で片側3扉の全6扉について幅1300ミリの両開きとした。この時の両開きドアについては、ドアエンジンを2個搭載していたとの記録があるが、101系では1個のエンジンで開閉出来る設計であった》

首都圏を追われる72・73系

車体更新のクモハ73049他 1963-8-23 摂津富田―茨木

関東では72・73系の最後の砦となっていた南武線と横浜線が新性能車化される事となった時、行き場を失った72・73系は関西地区、中でも一番不向きな京阪神~西明石区間にも振り向けられるが、昔から高速を旨としたこの区間での評判は芳しくなかった。
性能が改良された72系と言えども、いわゆる『ゲタ電』と呼ばれた通勤仕様だったため、高速仕様の51系が『郊外電車』として行き交う上記区間では、どうしても見劣りした。
もう一方の73系はルーツが63形だった事からバラック建ての印象 が付いて回り、悪評がエスカレートして『乗心地が悪い』『喘ぎながら走っている』更には冬場は『隙間風が入る』などの悪評が続出であった。

63形直系のクハ79他 1966-3-16 立花-甲子園口

結局、1971(昭和46)年3月現在で大タツ、大アカ、大ヨト、天オトの4電車区では合計で360両以上の72・73系を受け入れる事となり、それは既に新性能車化の始まっていた関西地区で、新性能車も含む配置車両総数の約5割の多きを占めていた。

この一連の車両のドミノ倒しでは必然的に関西伝統の51系が押し出される『犠牲を伴う事となり、飯田線、身延線等への転属が行われたが、これらの地方ローカル線では俊足の51系は『力』を持て余し、京阪神~西明石区間に於ける72・73系の限界いっぱいの走り方とは全く逆のヨタヨタ運転は、筆者の如く同区間で生き生きと走る姿に慣れ親しんだ者にとっては見るに堪えない状況を呈した。

仙石線のウグイス色73系1970-11-23 野蒜

とは言え、関東で余剰となっていた1000両を超える大量の72・73系についての受け皿が必要で、その押し込み先の選定が行き詰まり状態となった中、次に浮上したのは地方閑散路線であった。

最初に白羽の矢が立ったのは仙石線で、1967 (昭和42)年には前年の5両から34両と仙リハへの転入車が増え、それまでの10系17メートル車に代わって本格的な運用に入った。

ここでは車体塗装を変更して山手線の103系と同様のウグイス色としてイメー ジアップを図ったが、流石に寒冷地に流れ着いた中古車の印象が拭えなかったのに加えて、閑散線区での4扉、3段窓は如何にも場違いな印象があった。

103系を彷彿とさせるクハ79926 1970-11-23

もっとも後の転入車の中には920番台の全金車も居て、103系を彷彿とさせる場面を展開したのがせめてもの救いであった。

また、ここでは快速電車の設定が有って、遠く関西から転属して来たクモハ54とクハ68が任に当たったが、運用の都合で代替車に72・73系が充てられる事もあって、晴れ姿を見る事ができた。その後、この72・73系は寒冷地対策としてベンチレーターの交換や3段窓の2段化等の改造を実施して、地域に根付いた実績が生まれ、後の新性能車の導入に際してはもはや閑散線区での4ドアも気にはならないまでになった。

《これに続く72・73系の地方ローカル線への転属は、仙石線と同じ1967(昭和42)年に富山港線への11両の転入があったが、地方閑散路線で寒冷地等の条件は先の仙石線と類似していた。

なお、72・73系が転入した地方ローカル線は上記の他に御殿場線(1968年~)、中央西線(1969年~)、呉線(1970年~)が有り、夫々電化による電車化を機にまとまっ両数が移動したのは関東地区からの72・73系の淘汰に貢献した》

参考資料:鉄道ピクトリアル各巻各号 (鉄道図書刊行会)
国鉄動力車配置表/国鉄車両配置表(鉄道図書刊行会・各年度版)
電車形式図1953年版(日本国有鉄道工作局)
電車形式図1960年版(日本国有鉄道臨時車輛設計事務所)
関西国電略年史(大阪鉄道管理局)

 

 

 

 

 

 

 

 

『通勤形電車』の変遷    河 昭一郎様ご寄稿 」への10件のフィードバック

  1. 米手作市様、河 昭一郎様
    最初の通勤型電車の定義についてご丁寧な説明で私にもよくわかりました。また、系統立った変遷のよくわかる内容です。関西にいた頃クハ79なのにリベットが付いた車両がいてこれは改造車であるなということは想像していましたが戦争末期は車両不足等いろいろ大変であったことがわかります。片町線にも同じく改造か改悪かわかりませんがクモハでリベット付き4扉車がいました。恐らくクモハ31と思います。鶴見臨港鉄道は工場地帯を走るのですがモハ220、クハ260の17.5メートル車は4扉を必要とするほど大混雑していたのでしょうか。クエになった高槻区、三鷹区のそれを見ると扉の形がバラバラですが新製当初は4扉の大きさは揃っていたのでしょうか。最後に下駄(ゲタ)電と言えばモハ63形からその発展型72系あたりを指すものと個人的には思っておりますが、下駄代わりに乗れるという意味で戦前製の旧性能吊り掛け車と出ている書物もあります。下駄は戦前で戦後は靴が主流になったので72系などはゲタ電と言っても気軽に乗れる電車くらいの意味で言った言葉だと思います。しかし、昭和40年代の大糸線もゲタ電であったと言われるとちょっとピンと来ない気がします。都会の電車よりもローカル客車の方が庶民的で下駄も結構いたのではないでしょうか。私鉄はあまりゲタ電とは言わないようですね。最後に国鉄では63形から72、73系になった時に形→系になったのでしょうか。阪急など300形とか900形と言っていましたがそのうちに2000系などになったようです。私鉄では系が多いですが、形を使用しているところもあるようです。

  2. 準特急様

    早速コメントを頂き、ありがとうございます。

    ご質問の件、先ずは4扉クエについてですが、国鉄編入後は他の買収線へのドサ回り転属等を経て救援車化されたものです。
    その際長尺の工具類等の出し入れに適合するよう4枚のドアの内の1枚分を拡幅したため、不揃いになったものと思います。

    次に『下駄電』の件ですが、仰せの通り意味が曖昧で、どちらかと言うと鉄道ファンの世界で使われた俗称と理解しております。
    必ずしも『通勤車』にこだわっている訳でも無く、いわゆる気軽に下駄のように利用する電車の意味と考えられます。
    従って4ドア車の代表である73系のみならず、3ドアの40系や60系を始め17m車の10系をも含むものと思われます。
    しかしながら、仰せの客車には『下駄』との表現を見た事が無い様な気がしますネ。
    また、上記の『下駄電』達がローカル線に都落ちして行った先では忘れ去られた表現になりました。

    『形⇒系』の件については、本来は厳密に分けて使用すべきものですが、最近では混同されているのが実情ですネ。
    『系』が現れた当初は、3桁ナンバーの新性能車にのみ使用される新表現でしたが、一纏め化するには便利な表現だった事から旧来の2桁番号車にも応用利用されるようになったものと思われます。
    私鉄電車についても同様ではないかと思われます。
    小生も旧来車を『系』では表現しない事にこだわっていて、でも便利な表現なので文章の最後に『本来は2桁車には使用しない。』などと断り書きをしながら使っていましたが、昨今では意識しながらも、敢えて誤用しているのが実情です。(笑)

  3. 平成の掉尾を飾るにふさわしい正統派趣味人のお二人の会話を拝見して永年の心のつかえがとれた想いです。
    『ゲタ電』の言葉は、靴を履いて出かける、いわゆる外出用ではなくたばこを買いに出る気軽さで乗れる、の意味だと解釈していました。それは『ロングシートの各駅停車の電車』と自己流に定義しています。客車にはロングシートの車輌は無く(当時は)、長距離を旅する“列車”のイメージで、『よそいき』の服装を想像します。いまでも207系や321系は私の中では『ゲタ電』です。
    また、系・形の差異についてこれまで考えたこともありませんでしたが河さんに言われて初めて考えました。なるほど漢字的には『形』は固有名詞で、『系』は一族を表す『姓』と言えます。3桁以降に『系』を使うのも初めて知りました。以後、意識して使います。
    明日から『令和』が始まります。河さん、準特急さん、これからもよろしくお願い致します。

  4. 米手作市様
    「令和」の時代になりましたが引き続き宜しくご指導賜るようお願い申し上げます。さて、引き続き脱線した話ですが、系、形(型)について客車はどうかと思って佐竹さんが写真を半分以上出されている電気車研究会「日本の客車」復刻版を見ましたらナハ22000形、スハ32600形(後のスハ32形)、オハ61形等の表現が見られますが、スハ43、ナハ10等は形も系も見当たりません。我々はスハ43以降は系を使っていたように思いますし、20系や12系、50系は正しく系が使われています。次に私鉄ですがイカロス出版車両年鑑を見ますと京阪は現在の京津・石坂線の車両は600形、700形、800系とあり、本線は全て系です。阪神と東武も車両によって形と系が使われています。京急、小田急、京成、西鉄は形で他は系です。こうしてみますと各社それぞれの経緯や方針があるようです。最後にまた、ゲタ電ですが、ロングシート、各駅停車でも路面電車や私鉄は除きますね。ところで昔のことですがマイテに下駄で乗られた方がおられましたね。今頃天国で笑って見ておられることと思います。

  5. 準特急さん
    あらためて見てみると『系』『形・型(がた)』の使い分けは様々なようですね。国電に関しては国鉄が決めた分類があったのかもしれませんね。河さん、いかがでしょうか?
    ところでマイテにゲタで乗った強者は『俺は下駄を履いているのではない。足の裏がゲタの形をしているのだ』と言っていたように思います。だとしたら彼はあの時裸足だったのかもしれません。

    • 米手作市様
      『系』と『形』、私鉄まで含めると話はいよいよ複雑怪奇になりますネ。
      国鉄に新性能車が出現した時代を基本にお話すると、この用語には厳然たる違いが有りました。
      その頃から、車両は新たに3桁番号になった事も有って、例えば101系の車両形式にモハ101、クモハ100、クハ101などとMc、M、T、Tcが同じ3桁数字を使用するようになりましたネ。
      その時点で、例えば同じシリーズの旧2桁形式電車で、一形式毎にクモハ51とクハ68の如く単独で車両形式を表していた方式とは別に、一纏めに101系(奇数で代表)などと呼ぶ事にされたものです。
      従って、国鉄内では『系』と『形』には明瞭な違いが有った事がわかります。
      なお、私鉄については各々の会社で当時の国鉄方式の真似をしたか、又はただ単にシリーズ物として『系』を使っているのかは勉強不足で判りません。
      また、国鉄関連でもその後のJR化で各社が勝手気ままに『手を加え』ているようで、JR四国などはサッパリ判りません。
      今や小生の如くコダワル奴は居なくなっていて、鉄道界を始め鉄チャン達も言わば無茶苦茶状態ではないのかと・・・。

      • ご本家がメチャクチャなら我々に分かるはずがありませんね。でも奇数を以て代表系式にすることは初めて知りました。

  6. 河 昭一郎様
    国電のご説明は少しボケが始まった私でも大変すっきりしました。JRになって以降の各社の新製車両も電車、気動車共にJR東のEというのが気になりますが形式は各社調整してダブっていないような気がします。四国は独自路線に変更したのかよくわかりません。何れにしましても河さんの立派なご報告を変なところにスライスさせてしまったようで申し訳ありません。奇数の代表形式は米手さんと同様勉強になりました。有難うございました。

  7. 初めまして、楽しく拝見させていただいております。さて微に入り細に入りで申し訳ありませんが、2点、73への脱皮の項。サハ、クモハは製造されず、ですかね。東海道・山陽緩行線への73系列転入は南武線、横浜線の新性能化からみではなく、もっと以前、モハ90の中央線投入からでは?以上いきなり失礼致します。

  8. 細井忠邦さま
    小生の『通勤形電車の変遷』に対してコメント(ご質問)を頂き、ありがとうございました。
    実は、先日まで貴殿からのコメントに気付かず、大変ご無礼な事をしたと反省すると同時にお詫びする次第です。
    故あって、デジ青の『通勤形電車の変遷』を再確認する必要が有ったため、見直しを行っていたところ、貴殿から質問コメントが来ていたのを始めて知った次第です。
    良く見ると、この記事の掲載が昨年の4月29日⇒質問等のコメントの遣り取りが5月2日で一旦終息しており、貴殿からのコメントがそれから3カ月以上経過後の8月16日だった事から気付かずに居たものと思います。
    さて、「73系への脱皮」については、約690両近くの大量のモハ63がクモハ73をはじめモハ72、クハ79、サハ78となりました。
    また、その後デビューしたいわゆる「72系」については、モハ72とクハ79が製造され、サハとクモハは製造されませんでした。(小生の記事の中で、「…73系とは一線を画した電車で、サハは製造され500番以降のモハ72と…」の項に脱字が有り、「サハは製造されず」が正当です。)
    次いで、貴殿がご指摘の「先ず関西に73系が台頭しだしたのは中央線への90系の導入と時を同じくしているのでは?」とのご意見について。
    90系が現れた1957年6月以降、1957年11月1日の車輛配置表と1961年4月1日の車両配置表を比較すると、73系は関東で40両減に対して関西では56両の増となっていますので、貴殿のご指摘が正しいと考えられます。
    一方、それ以降について関東の減少両数と関西の増加両数を対比して見ると、1964年4月1日の車両配置表と1968年3月31日のそれとの比較では、関東の411両減に対して関西では222両の増となっており、前述の90系出現時期より「規模」が大きく成っており、此の時期が『73系の台頭』時代と言えます。
    従って、貴殿ご指摘の通り関西での『73系の台頭』は、南武線101系化(1978年8月)横浜線103系化(1979年10月1日)時より早い時期ですので、誤りを訂正すべきと考えております。

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