《特別寄稿》スカ形国電の時代(最終回)・・・河 昭一郎

《特別寄稿》スカ形国電の時代(その1)・・・河 昭一郎

《特別寄稿》スカ形国電の時代(その2)・・・河 昭一郎

クハ76028他6連下り 1963-11-17 逗子

横須賀線の電車運転は30系に始まり、32系へとバトンタッチされたが、不幸な戦争前後の混乱期を経て1951(昭和26)年3月には70系のスカ形電車が登場した。

しかし、在来車両の有効利用を命題としていたと考えられ、此の時期良く対比される湘南電車が新車のみで構成されていたのに対して横須賀線については新系列車両としてはモハ70、クハ76、サロ46(後のサロ75)のみで、当初はその製造両数も最小数であった。それに不足する車両は在来車を充当する事とし、関西から供給されたモハ42、モハ43、サハ48の他にそれまでの32系時代に活躍したクハ47、サロ45、サロ15が混結運用された。

編成については7両の基本編成に対して付属編成が5両の12連で、サロは基本編成内に2両が連続連結された。
1959(昭和34)年2月1日からは基本、付属とも6連化されサロは夫々に分散して連結される事となって、次の通り編成替えが有った。

東京←クハ76+モハ70+モハ70+サロ46+モハ70+クハ76
東京←クハ76+モハ70+モハ70+サロ46+サハ48+モハ43(又はモハ53)
東京←クハ76+モハ43(モハ53)+モハ70+サロ46+モハ70+クハ76

クモハ51208(クモハ43の3扉化車)+クハ76013 久里浜行 1963-11-24 横須賀

この内、3番目の編成は言わば『久里浜運用』で、1959(昭和34)年 2月以降の昼間帯は横須賀で東京寄りの2両が6連から外れ、後半の4両を電留線に残したまま横須―久里浜を折返し運行した。
なお、上記編成は基本パターンで、クハ76の代わりにクハ47が連結されたり、サロ46についてはサロ45や17メートル車のサロ15も併せて運用された。
また70系であったサロ46は、1959(昭和34)年12月以降サロ75と形式変更された。

1960(昭和35)年4月20日に開業した大船電車区は、当初は横須賀線専用の電車区としてスタートし、それまで東チタ(田町電車区)が担当していた横須賀線電車を全面的に引取って開業した。

転属による車両動向が落ち着いた1961(昭和36)年4月1日現在の東フナ在籍車は153両の70系の他、42系等の車両を合わせた在籍車合計は188両であった。
此の措置は、1958(昭和33)年に誕生した20系(後の151系)こだま形を始め、以後の新性能車が田町電車区に集中配置される事から旧形電車を放出せざるを得なくなり、その受け皿として手始めに横須賀線電車が移動したものであった。

因みに、それまで田町電車区が担当していた東海道線の80系湘南電車については、5連の付属編成8本が大船電車区に、残りの178両が静シス(静岡運転所)に分散して運用された。
なお、横須賀線には大船電車区の他に逗子に大規模な電留線が有って、昼間逗子で切り離された付属編成等が収容されており、夜間は基本編成も収容された。

クハ76095他 1963-11-17 大船電車区

 

横須賀線にはスカ形と言われる70系車両があったが、それとは別に70系化当初から後年にかけて異形式の車輛が活躍した。

それには大別して3種類有って、70系化当初から計画されていた『車両の有効活用』に加えて『短期間の応援入線』、更には車両需給に絡んだ『車両交換』があった。

『車両の有効活用』については関西から東上した42系一族が該当し、それによって70系の新造数をセーブした。

茶色のモハ72625 1962-3-16 逗子

『短期間の応援』は2度に亘って行われ、最初は1955(昭和30)年6月に行われた42系 車両の更新修繕時で、スカ色に塗り替えられたモハ30がピンチヒッターに入り、4両(000、001、002、004)が活躍した。

さらに1959(昭和34)年8月には70系の更新修繕があって、この時も東鉄各区から3両(541、625、626)のモハ72が入線したが、塗色が茶色のままだったため異彩を放った。

なお、このモハ72は70系の更新修繕が一段落した後も、当時混雑度が増し始めた横須賀線で関西からの70系補強までの間の繋ぎ運用に充てられ、1962(昭和37)年7月まで残った。

スカ塗りのサロ85020 1966-3-1 横須賀

また『車両交換』については1959(昭和34)年5月のサロ85の横須賀線への転用があり、70系のサロ46に比して見劣りが目立ったサロ15やサロ45と車両を交換した。                これは東海道線の東京口が153系化されるのに伴って80系が静シスへ異動した際に生じたサロ85の余剰車11両の有効利用であった。
なお、このサロ85は塗分け線はそのまま変更せず塗色のみを横須賀線色に塗り替え、連結部は貫通路巾が違うため特殊な蛇腹式の幌で繋いで運用された。

 

横須賀線にも新性能車の波が押し寄せ、1962(昭和37)年10月1日からは『新スカ形』と言われた11連の111系(湘南色)が横須賀線の暫定運用に就いた。

翌年の1963(昭和38)年12月19日には湘南色の113系4両が東フナ区に初配置され、続く1964(昭和39)年2月1日からは113系へのシフトが本格化し、湘南色の113系7連+5連による運用が始まった。(初のスカ色113系は1965(昭和40)年4月25日に配属され、塗分け線は湘南方式だったが、同年の秋にはスカ線独自の塗り分け方式に変更された)

スカ色113系 1965-10-21 横浜付近

これにより余剰となったスカ形70系は1964(昭和39)年~1966(昭和40)年にかけて各地に散る事となったが、その口火を切ったのは1964(昭和39)年8月に大アカに移動した4両のモハ70で、それに続く同年12月~翌年1月にかけて新ナカ二に対するモハ70X2両とクハ76X1両の補強があった。

それ以降は更にまとまった数の移動が行われ、1965(昭和40)年~1968(昭和43)年の間に東フナから転出した70系の合計は124両(大アカ16、名カキ42、静トヨ3、新ナカ二63)に達し、1968(昭和43)年3月31日現在東フナには尚49両が残存した。

長くエリート路線の名を欲しいままにしていた横須賀線であったが、その潮目が変わったのは70系のスカ形が登場した時期からで、この頃を境として鎌倉は大衆化して行き、一般住民が棲みつくベッドタウンとしての姿を兼ね備える事となって、それはエリート路線にはそぐわない通勤ラッシュを産む結果となった。

奇しくもそれを見越したかの如く現れた3つドアでセミクロスの70系スカ形は通勤輸送を先取りしての設計と見られ、以後113系を経て217系に続く通勤電車の時代へと突入した。

最新のスカ形クハ216-2004 2012-6-2 北鎌倉

その後も人口増加によるベッドタウン化に拍車がかかり、増発にネックとなっていた東海道線との分離運行が議論される事となって、先に述べたMS分離に発展したが、それは同時に東京駅の地下で総武線と繋がる事となって同線との直通運転が行われるようになった。

直通運転の拡大により鎌倉や逗子ではかつての終点・東京行は数える程しかなくなり、上総一宮や成田空港等の『見慣れぬ』行先表示の電車が出入りする事となって、それは新鮮味が加わった半面もう横須賀線が小津監督作品で描かれるスカ線では無くなってしまった事を意識させられる寂しさを伴った。

総武線には『ロ』は要らないと言われたにも関わらず運用車両とその編成も共通化され、217系は横クラと千マリで相似形編成を組んでおり、もはや横須賀線の独自性は消え失せてしまって横須賀線自身の影が薄くなっており、更に後に来る湘南新宿ラインの乗入れで以前の『別格路線』は関東地方の広範なエリアに埋没してしまった感がある。                            (鉄道趣味人)
ーおわりー

参考資料:
鉄道ピクトリアル各巻各号(鉄道図書刊行会)
国鉄動力車配置表/国鉄車両配置表各年度版(鉄道図書刊行会)
電車形式図(日本国有鉄道)
国電車両写真集(交通新聞社)

5 thoughts on “《特別寄稿》スカ形国電の時代(最終回)・・・河 昭一郎

  1. 米手作市様
    此の度は、ご無理を申しあげたのにも関わらず、快くお聞きとどけいただきまして有難うございました。
    さて評判の方は?と言えば、好評に到達するには未だ未だとの未熟さを感じており、特に(最終回)については未だにレスポンスが無く、反省すべきと考えております。
    そんな中、貴兄をはじめ準特急様、どですかでん様、総本家青信号特派員様、井原 実様、大津の86様、Wakuhiro様、まほろばの鉄趣味住人様からは大変ありがたいコメントを頂き感謝に堪えません。
    お陰さまで今回は、目から鱗の話を聞かせていただけて、「ハッ」とした他に、勉強になった事が多々有って、有意義な経験と感謝しております。
    一方、勢い込んだ小生の方からは、どちらかと言えば陳腐な話が多かったんでは無いかと今になって反省している次第です。
    今後共よろしくお願い致します。

  2. 河 昭一郎様、列車課と電車課のせめぎ合い、大変楽しく読ませて頂きました。
    私は模型作りの方で実物とか歴史の知識は乏しく、外観の違いで車種が分かる程度です。
    そこで、質問です。
    1.列車課と電車課は、何時頃統合されたのでしょうか?
    2.大雑把な目安として「グローブ形ベンチレーターの付いた車両は電車課の設計」と言って良いのでしょうか?
    (以下は例外なのでしょうか?)
    車体更新時に、ガラベンからグロベンに換装されたものも有るのでしょうか? 大凡の傾向を、ご教示ください。
    153系や155系の初期型は、グロベンが付いていました。
    101系の試作車は、押し込み型が付いていました。
    301系(東西線乗り入れ車両)は地下を走る為、押し込み型が付いていました。

  3. 河 昭一郎様
    長編のご投稿、ありがとうございました。
    レスポンスの多寡は主題によるものではありません。経験で言えば精緻なものほど反応が少ないように思えます。投稿者の努力と知識について行けないと言うのか、なまじの書き込みは失礼と思うのでしょうか。今回は「電車の大家」でおられる河 昭一郎さんのご投稿と言うことで緊張したのだと思います。その証拠に閲覧人気記事の上位にランクされています。
    これからもお気軽にご投稿下さい。お待ちしております。
    また、装丁を勝手に変えましたことをお詫び致します。

  4. 鉄鈍爺様
    先ず1番目のご質問の「統合の時期」については不明ですので調査を継続しようと考えております。
    次に、ベンチレーターについてはグロベンが電車特有で、更新修繕時にはガラベンは片っ端から換装されたと記憶しております。

    • 河 昭一郎様、ご回答ありがとうございます。
      列車課と電車課の件については、急ぎません。
      また話が込み入る様なら、別稿仕立てとか、鉄道誌にて御披露頂くのも宜しいかと考えます。
      グロベンの話、ありがとうございます。
      片っ端から換装とは、余程効果が有ったのですね。
      戦後にドドッと出てきたと物と思いましたが、Wikipediaによれば戦時63形が大型化の嚆矢とか。
      機会がありましたら、その効果とか、何故電車に限定使用されたのかとか、語って頂ければと思います。
      おねだりばかりで、申し訳ございません。

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