前回より
これらの70系横須賀線電車については、程無く『スカ形』と呼ばれるようになったが、その外部塗装は窓まわりをクリーム色とし、窓の上下は紺色とも言われるブルーが採用され、それは沿線の鎌倉や逗子の砂浜と海を表しているとも言われ、落ち着いた雰囲気をたたえていた。
この塗色は先輩格の80系湘南電車が沿線の『みかん』をイメージして窓まわりにオレンジ色を使用し、窓の上下をグリーンとした派手な印象とは対照的であった。
先頭車前面のデザインについては大形2枚窓の湘南電車とは相似形であったが、実は湘南電車の前面については2枚窓に落ち着く迄に次のような変遷があった。
クハ86の第1次車(20両)は丸妻3枚窓で、2次車以降は2枚窓となったが、3枚窓(1次車)⇒2枚窓(2次車)の設計変更時に丸妻台枠のままで窓のみを2枚窓化した2両(21、22)が1次車と2次車の折衷デザインとなっていて面持ちに独特感があった。
スカ形70系は典型的な近郊型電車で、51系の思想を引き継いでおり、3扉でセミクロスの設計であったが、何かにつけて比較対象となる80系湘南電車は車体の両端にドアが有る2扉クロスシート車であった。
この違いは前述の通り列車を置き換えた湘南形については列車課が設計を担当したのに対して、スカ形は電車課が担当したためで、基本的に設計のコンセプトに違いが有ったためと言われている。
このため、上記のような相違点に加えて窓配置とその規格(大きさ)にも大きな違いがあって、80系が客車のオハ61とそっくりで、その横幅は広く1000ミリだったのに対して70系は700ミリと狭かった。
しかし高さについては前者が715ミリなのに比して電車規格の後者は870ミリと高くなっており着席者中心の客車規格とは違う立席者を意識した電車特有のスタイルをしていた。
従って80系については立席者の目線が幕板で遮られ、デッキ付きだった事も影響して暗い印象だったのに対してデッキの仕切りも無く開放的な70系には明るさが有った。
湘南電車に続いて登場したスカ形70系にはモハ、クハ、サロ、が有ったが、湘南形には存在したサハは製造されなかった。その理由は、車両の有効利用が計算されていたからだと考えられ、サハについては32系時代からのサハ48をそのまま充当する事となった。
元来、70系は『電車課の電車』としてスタートした事から設計については旧来の電車とは共通部分があり、当初から旧来車との併結運用が念頭に有ったと考えられる。
それは、関西から大量の42系が5両のサハ48をも含めて東上し、既にその時点で併結運用が前提とされていた点からも理解できる事であった。結局、実際の運用では15~17両のサハ48が70系の中間付随車として大活躍し、中に複数の流電名残りの広窓車もあって異彩を放った。
スカ形電車のデビュー時にはその新製車種の製造両数に『異変』があった。
通常、電車の編成ではM対Tの比率は対等もしくはM車の方が多いのが常識で、その法則からすれば新しいシリーズの新造時には、T車(TcとTs及びT等の合計)の両数よりM車の比率が多いと考えられるが、この70系については前述の通り第一陣の内訳はM車が10両だったのに対してT車(Tc+Ts)は40両でT車が圧倒的に多く変則的な製造数であった。
その謎はスカ形が登場する前年の東西大移動に起因しており、その時東上した42系の内訳はモハ42×7両、モハ43×19両、クハ58×9両及び流電一族のサハ48×5両であったが、実はこの中のモハ42とモハ43を合わせた36両もの大阪方M車がモハ70の不足分をカバーした事であった。
なお、この42系車両についてはその性能上でモハ70のそれとは異っていて、電動機はMT15C又はMT15DX4個を装備し、出力は400Kwとモハ70より低かったが、歯車比は2.26で最高速度も95Kmと大差は無かった。
しかし実際の走行では時として併結の70系に追い立てられる感じも有り、下り先頭で走る中で全速に達した後のノッチオフ走行では、『カラカラン』と鳴るモーターの空回り音がその高速運転ぶりを示していた。しかし、その反面1933(昭和8)年~1934(昭和9)年に製造され経年の車体には少々苦しそうにも聞こえたのを覚えている。
つづく
河昭一郎様
スカ形のお話、興味深く拝見しています。
スカ形にはあまりなじみがなく、80系と同様、長編成の70系も同じ形式で統一されていたのかと思っていましたが、中間車は少なく、他型式が入っていたのですね。12両編成の場合クハ76は両端だけだったのでしょうか?
また、戦前型の電車には中間電動車はないと思っていたのですが、モハ42,43がモハ70の不足分をカバーしたと書かれていたのをみて、こちらも初めて知りました。
ところでスカ色は学生時代、飯田線を走っていたころ、何度か訪れてなじみがあり、好きな色です。ただ残念ながらカラー写真は撮っていませんでした。
大津の86さま
ご質問の12連の件、スカ線は通常基本+付属の12連で走行する場合が大半でしたが、中間のTcは76が2両向い合わせで組成される場合が殆どでした。
76の不足を補ったのは当初関西から転入の19両の43でしたが、その大半が下り向きの偶数車でしたので、下り先頭に出る機会も多く、小生等はそれを狙って保土ヶ谷、戸塚、大船界隈をカメラ片手に流して歩いたものです。
また、この下り向きの43はスカ←76+70+75+70+43+76→トウにも組成され、東京寄りの43+76が横須賀で切れて2連の久里浜折返し運用となっていました。
電車音痴はスカ形と茶坊主が同じだとは知りませんでした。
私が撮った数少ない電車でも、茶坊主はこれ一枚。中学生が撮ったので見苦しいのはお許しください。
米手作市様
ドンドン出てきますね。茶坊主は私は高校生の時大阪駅で遠くに停車中の小さなのが1枚だけです。
もう一枚
阪和線の76
米手作市様
茶坊主、懐かしいですネ~。
関西には当初、1954(S29)年12月3日付けで2両の初期型車(76065と76067)が入り、これが茶色一色だったのが小学校4年生の小生には「物凄いレア感」でした。
その後1961年には12両を数えるようになりましたが、その後のスカ線増強で東上してしまい、翌年には激減したようです。
この茶坊主で印象に残っているのは京都から琵琶湖方面への夏の臨電で、当初は80系の向こうを張ってわざわざ大アカ、大タツから70系をかき集て76+70+70+70+70+76の綺麗な編成を作って運用していた事でした。
また、阪和線のスカ形は、これまた由緒があって、あの阪和色は本当に「ほんわかムード」があって大好きでした。
ところが、或る時「クロネコヤマトや!」の声を聞いてガッカリ!
でも気を取り直して改めて見ると「やっぱりグッド」!!(笑)
写真の添付をわすれました!
もう1枚
茶坊主は94号でした。
阪和線が出てきたので、便乗します(色がよくありませんが—)。
Wakuhiroさま
これはスカ色に統一後の阪和線ですネ。
この頃、湘南形80系に続いてスカ形70系の地方下りが有り、併せてスカ色が地方国電色として統一カラ―化された時期でしょうか。
飯田線、福塩線、御殿場線等の失礼ながら田舎へと波及し、スカ形以外の73系等もスカ色で厚化粧をした時代でした。
そのトバッチリ?で、我が阪和線も多勢に無勢で、スカ色に飲み込まれた時代でした。
カツテの鎌倉、逗子を代表する別格路線色も台無しとなり、アイデンティティもヘッタクレも無く成った時代でもありました。
河 昭一郎様
湘南型80系は列車課の設計で窓配置や大きさがオハ61とそっくりといわれてなるほどと思いました。私は湘南80系は準急「比叡」で始めて乗車しましたし、関西の快速で全金属の300番台に乗った時の車内の印象は何となくナハ10に似ているなと感じたものです。これも列車課のなせる業でしょうか。また、スカ線の70系は1965(昭和40)年に始めて見たり撮影しましたが、両端がクハ76の6連でそれを混雑時間帯を中心に2本連結して12連で運用され戦前車はもう見かけなかったような気がします。スカ型の元祖が51系というのはよくわかりました。これからも新しい発見があると思いますので宜しくお願い致します。
準特急さま
その頃、東フナでは既に113系化が加速していた時期で、70系等の旧性能車はどんどん地方(新ナカ二、大アカ、名カキ)へ放出されました。
従って、関西由来の旧国はもとより70系スカ形も風前の灯状態だったと思います。
皆様へ
2回目クイズの出題です。今回も賞金も賞品もありませんが、お付き合いいただければ幸甚です。
ご承知の通り、スカ線は同時期に華々しくデビューした湘南電車と共に有りました。
東海道線に時期を合わせて(実際には約1年遅れ)車両を一新した際、取られた苦肉の策とは何だったでしょうか?
ヒントを下さい
米手作市
「一新した」と言う問題文が「問題を起こした」かも知れないと反省中です。
以上がヒントです。
関西のスカ色を御紹介頂いているので、元祖スカ色をと思い、Davis氏のスライドを探しましたが、露出不足のこれくらいしかカラーは見当たりません。撮影は昭和31年、場所は品川を出て、八ツ山橋を潜った切通しの辺りです。正面窓枠が、木製の初期型ですね。後期のHゴム支持の方も近代的で良いですが、こちらも重厚感があって、甲乙付けがたいと云うところでしょうか。
宮崎繁幹 様
これこそ品の有るのオリジナルのスカ色ですネ。
それにしてもDavis氏は本当に日本全国の沢山の車輛を撮ってますよネ。
いつも感心していますが、その写真を収蔵しておられる貴殿には感謝です。
宮崎繁幹様には感謝です。
貴重なカラー写真を見せていただき、本当にありがとうございます。
米手作市様
判ったか判らないような事を言って「ヒント」等と、大変失礼しました。
更には手違いで、貴殿への敬称が抜けた事に気付かず、ご無礼を致しました事をお詫び致します。
さて、今回は回答にお付き合いいただけたのは貴殿のみですので、正解を以下に。
その頃でも未だ列車課の方が力が強かったんでしょうかネェ。
予算をガッチリ勝ち取った列車課は全部80系の新車で揃え、クモユニ81までも新調したと言うのに、片や組織としては後発の電車課は予算をケチられ、全車を70系新車で揃える事が出来ず、「苦肉の策」で厚化粧を塗りたくった多量の中古車を受け入れて、お茶を濁さざるを得なかったのではないかと考えられます。
この様な車両の玉突き異動は、当時の国鉄のお家芸でした。
河 昭一郎様
お気遣いは今後ともご無用です。
今回のご投稿で知ったのは、国鉄に「列車課」と「電車課」があったと言うこと、列車課が設計した80系は客車に準じ座ってちょうどよい窓のサイズ、70系は立っていても外が見える縦長の窓のサイズであることでした。同じ顔をしていても何か違和感を感じていた原因が65年ぶりに分かりました。
奥が深い話ですね!
河 昭一郎様
70系は1951(昭和26)年、80系は1950(昭和25)年の登場とありますが、そうであるなら形式が70系と80系は逆ではないでしょうか。何か事情でもあったのかと推察してしまうのですが、お分かりでしたら教えてください。
準特急様
確かに! 仰せの通り!
残念ながら小生、勉強不足で…。
ひょっとして発案⇒登録などの順に関係が有ったのかも知れませんネ。
「御勉強事項」が又ひとつ増えました。(笑)
準特急様
JTBキャンブックスの「幻の国鉄車両」には、「昭和23年、東京~沼津間の電車化計画が立てられ、モハ70(中間電動車)、モハ71(運転室付電動車)、サハ76(付随車)の3形式が計画された。」との記事がありますので、この幻に終わったシリーズが初代70系ということになるでしょうか。ただ後年の湘南電車の運転区間にも拘らず、この初代70系はモハ63系を3扉にした程度のロングシート車で、窓は3段窓、通風器はさすがにガーランド型ですが、貫通幌もトイレもないというシロモノでした。河様のお話からすると、電車課の設計なのかもしれません。それがどういう事情で80系にとって代わられ、70系はスカ線用の新型車になったかはわかりませんが、80系が70系よりも先に出現したのは、こんなことも影響しているのではと思います。
まほろばの鉄趣味住人 様
居眠り・うたた寝から目覚めたら、朗報が・・・。 成るほど、成るほど。
負け惜しみ?の誹りを受けるかもしれませんが、そう言えば御教示いただいた件は聞いた事があるような気がします。(じゃ無くて、JTBキャンブックスの「幻の国鉄車両」に出てるんですものネ。)
しかし、それを即座に出せ無いようでは「電車屋」失格ですネ。(笑)
何れにしろ、貴殿に感謝、感謝です。
まほろばの鉄趣味人様、河 昭一郎様
キャンブッックス「幻の国鉄車両」を一度見て勉強したいと思いますが、何よりその計画された70系がどうであったか見てみたいですね。C63という幻の蒸機はC58のようなスタイルで計画されていたようですが、いろいろあったようですね。河さんお騒がせしました。最後のスカ線投稿は217系まで含めてエリートラインが没落していく様子がよくわかりました。千葉関係の人には申し訳ないですが、東京行きがなくなり、上総一ノ宮とか聞いたことがない行先にがっかりした鎌倉、逗子周辺の利用者の声を聞いたことがあります。スカ線は昔から1等車を連結していたのは海軍があったからだと聞いたこともあります。