魚梁瀬森林鉄道跡 探訪記(その1) 林鉄の歴史

学生時代に何かの雑誌で、阿里山で活躍しているシェイ式蒸機が、国内にも数機いたことを知り、それがきっかけで高知県の魚梁瀬森林鉄道の存在を知りました。しかし、木曽森林鉄道以上に訪ねにくい地にあり、気になりつつも半世紀が経過しました。一方、我が家の食卓(冷蔵庫)には「馬路村のポン酢醤油」が常備されていて、生産地である馬路村も気になる存在でした。また、平成13年にはRMライブラリNo.29として舛本成行氏により「魚梁瀬森林鉄道」が詳しく紹介されるに至り、馬路村と魚梁瀬森林鉄道跡をいつ訪問しようかと考えていました。この度、ようやく念願であった現地訪問が実現しましたので、現地の様子をご紹介します。

中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会発行のガイドマップ表紙(折りたたむとB5判、拡げるとB2判の非常に良くできたマップです)

なお「中芸地区」とは、安芸市、奈半利町、北川村、田野町、馬路村、安田町が安芸郡の中央にあることから、そう呼ばれるのだろうと思います。ガイドマップの表紙を飾るのが「シェイ」であるのも素敵です。

路線図(RMライブラリNo.29より転載)

魚梁瀬森林鉄道の歴史は古く、明治44年に安田川沿いの馬路から河口の田野に軌道が敷設され、それまでは川に流していた木材をトロッコに積んで、無動力で自然勾配を利用して駆け下ったのが始まりです。そして、空のトロッコを山に曳き上げるのに、犬や牛馬が使用されました。明治後期、まず津軽の国有林に最初の森林鉄道が敷設され、次いで木曽、そして魚梁瀬が我が国3番目の森林鉄道となりました。但し、自然落下方式のため事故が絶えず、ブレーキ方式の確立が課題で、大正4年になって堀田式制動機(といっても木材の上に乗っている作業員がロープと滑車を使って人力でブレーキをかける素朴なもの)が考案されたことにより安全性が改善され、馬路から更に奥の魚梁瀬への本線や多くの谷に分け入る支線が増えてゆきます。大正6年には更に奥の石仙(こくせん)までの42Kmが開通しています。大正8年になって、津軽からシェイがやってきます。しかし、どうも分解状態で送られて来たようで、その再組立てに手間取り、大正10年になってようやく組立が完成したそうです。馬路・魚梁瀬間には自然落下では越えられない逆勾配区間があり、その区間でトロッコを牽かせるためにシェイを使おうとしたのですが、速度が出ず、よく脱線したり非力だったため 期待外れだったそうです。

RMライブラリNo.29から転載。2シリンダで板台枠台車であることがわかる

臼井茂信著 機関車の系譜図2 より転載。八幡製鉄所48号機。魚梁瀬のものとよく似てはいるが同一機ではない。

臼井茂信氏によれば、津軽から魚梁瀬に来たシェイは、阿里山から津軽に来たのではないかと推察されています。魚梁瀬では期待外れで、大正10年には田野貯木場の入換え用となり、大正14年には廃車になったようです。ところが、臼井氏によればその後、津軽に戻り、更に阿里山に送り返されたとされ、詳細は不明です。

シェイに代わって、大正12年にはポーター社製のB1サイドタンク機関車が2両入線しました(2号機、3号機)。この10Ton機は好評だったようです。

舛本成行著「高知魚梁瀬の林鉄」より転載。  大正11年 馬路にて

津軽、秋田、木曽、高知と国有林の森林鉄道では、メーカーはボールドウイン、コッケリル、コッペル、ポーターと様々ながら、B1タンク機関車が活躍しました。軸配置B1は広火室ボイラが可能で出力が大きく、木材を燃料にする際には炭庫が大きくでき、また急カーブの続く路線でバック運転時に、先輪が安定走行に役立ったためと言われています。大正13年には4号機が増備されています。なんと戦時中の昭和17年には大阪の田中機械製作所で作られたポーター機のコピー機(5号機)が入線し、更に昭和19年には東京の八島製作所製の2代目5号機が入線しています。

後述しますが、馬路村の中心地に、このポーター機の動輪と鐘が保存されています。これが何号機の動輪なのかは判別できませんでした。

ポーター機の動輪

ポーター機の鐘

説明板

2号機、4号機、5号機は廃車後、奈半利にあった自社工場で下回りを流用したディーゼル機関車に生まれ変わり、昭和38年の本線廃止まで活躍しました。

さて、安田川沿いに路線を伸ばした森林鉄道は、田野から奈半利川沿いに上流へ向かって路線を伸ばします。昭和7年には田野・二股間24Kmが開通しています。昭和17年には釈迦ケ生(しゃかがお)で安田川線とつながります。細かな路線延長の歴史は省略しますが、奈半利川流域は全国屈指の多雨地帯で、森林が発達し、小さな河川ながら流量が多いため水力発電の有望地として注目され、昭和29年に電源開発会社が魚梁瀬にダムを建設する計画が浮上します。この魚梁瀬ダムが完成すれば釈迦ケ生から奥の森林鉄道は水没することになります。また山間部ではダム建設のための道路を作るために森林鉄道の路盤を流用するという側面もあり、昭和32年に森林鉄道の廃止が決まり、昭和38年に運行が終了しました。

その後の紆余曲折も省略しますが、廃止から42年後の平成17年に「中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会」が発足し、平成21年には廃線跡のトンネルや鉄橋9件が経産省の近代化産業遺産群に認定され、更に文科省により国の重要文化財にも指定されました。そして Story#051「森林鉄道から日本一のゆずロード」として日本遺産の構成要素としても注目されることになった次第です。(その2に続く)

 

 

魚梁瀬森林鉄道跡 探訪記(その1) 林鉄の歴史」への11件のフィードバック

  1. 魚梁瀬森林鉄道へ行ってこられたのですね。私も車で家族みんなで行こうと地図とにらめっこしながら計画をしていたのですが、そのうちフェリーむろとの航路がなくなり、行くことができませんでした。フェリーむろとには足摺、四万十川への旅行で乗りました。龍馬脱藩の道や四国カルストなどを通って松山へといったのですが、道後温泉で入浴できなかったといまだに恨みつらみをを言われます。風呂に入っていると時間を忘れてしまって、帰りのフェリーに間に合わない恐れがあったからです。ナビもなし、地図を頼りにはじめての所を走るのは不安だったからです。それは別として魚梁瀬の町中を走る森林鉄道の動画を見たことがあるので調べてみるとYouTubeで「やなせの町中を走る林鉄」という動画で見ることができます。これはすごい映像です。何回見ても楽しくなります。しかし、ユズのトゲは恐ろしい!!

    • どですかでん様 魚梁瀬は是非行かれることをお勧めします。ようやく(その1)をアップしましたが、続編をお楽しみに!関連図書も多く出ており、山の暮らしの大変さを現地を訪れてみて痛感しました。

  2. 西村雅幸さま
    「魚梁瀬森林鉄道」を楽しく読ませていただきました。実は小生も以前から気になっていたのですが、情報・資料が乏しい(実際にはお書きのようにそうでもないようですが)こと、マイカーという足を持っていないこと、四国の不便な地域に在ること等々から、関心はあっても熱意がなかったのかもしれません。いわんやシェイが居たなんて全く知りませんでした。線路配置が複雑なことに興味をひかれ、地理院地図と照合してみたいと思っていますが果たしてできるかどうか。その(2)を楽しみにしております。

  3. 魚梁瀬は、2000~2005年頃に数回、訪れました。
    国土地理院の旧図(1/5万)から軌道をプロットし、宮脇氏の著作などから見学ポイントを絞り込みました。

    【魚梁瀬のシェイについて】
    期待された割には『牛より遅い』との酷評で、貧弱な路盤に軸重が耐えられず度々脱線し、また車両の整備も稚拙で保守が行き届かず、実力を発揮できませんでした。
    シェイは台湾の阿里山で、ようやくマトモに稼働し正当な評価を得ました。
    【CN:2001(THE SHAY LOCOMOTIVE Titan of the tinber:Michael Koch)】
    製造:1907/11/06
    履歴:
    Imperial Yokohama Gov’t. Steel Works 向け
    阿里山、津軽を経て、1911年に再度、阿里山。
    1919年に魚梁瀬。
    1925年にスクラップ。
    【SHAYのD/Bサイト】
    https://www.shaylocomotives.com/

    • やま様 シェイの貴重な情報をありがとうございます。製番が2001であったことや詳細な仕様もわかりました。シェイに関するこのようなH.Pがあることも知りませんでした。八幡や横須賀の6両についても調べてみます。

  4. 西村雅幸様
    私のような凡ファンでも中に引き込まれるような訪問記です。私は蒸機から始まって国鉄、私鉄と趣味の範囲を広げていきましたが軽便や廃線跡などはほとんど行ったことがありません。要は趣味の対象が一般的な物ばかりで投稿やコメントもそれを超えることはありません。加えてDRFCではお元気な先輩もおられますが今一パッとしない高齢者です。そんな中でシェイという変わった機関車に触れられていたのでアメリカコロラド州で1998年9月4日に観光用で走っていましたジョージタウンループ鉄道のそれを出してみました。

    • 準特急様 コメントあるがとうございます。私は阿里山にも行ったことがなく、シェイは写真でしか知りません。日本国内でこそ珍品扱いですが、アメリカでは森林鉄道を中心に広く普及していたようです。ベベルギアーとユニバーサルジョイントを使ってボギー式の機関車を考えた人に敬意を表したい気持ちです。そんな機関車が高知の山奥にいたということに興味をひかれます。

  5. 西村雅幸様
    2009年11月30日同じくコロラド州で多数の車両が屋外展示されている鉄道博物館で見たものです。蒸気機関車特有の主連棒やロッドがなく何となくシェイの一種ではないかと思っておりますが如何でしょうか。本題とは違った話で恐縮です。

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