◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑭ 

市電最盛期に連結市電登場

広島の駅頭に立っていますと、電車が次々と折り返して行きます。赤地に白字の1の円い系統板を付けた青電がやって参りますと、懐かしい思いに駆り立てられます。この系統は、昔、壬生車庫から千本今出川へ、百万遍、祇園を経て、一周していました。四条通へ向かう反対回りもありました。反物を風呂敷にくるんで小脇に抱えた人、背に負った人も乗っていました。


広島の1号系統は繁華街を経て宇品港へ行きます。そこから船で松山へ、道後温泉行きの電車の中に、元京都市電もあるのです。クーラーを積みオレンジとクリーム色ですから「ほんま?」となるかもしれません。京都時代と同じ2000番代の車両番号のままです。この電車、京都市電最後の新造車で、登場した昭和39年には正真正銘の「青電」でした。腰下が明るいブルーでした。そして窓下にはオレンジの帯を巻いておりました。
2000形の出で立ちが変わったのは、まず連結運転をすることでした。京都の人口が130万人を越え都市のスプロール化が始まったからです。烏丸通の朝ラッシュ時の混雑はすさまじく、京都駅、四条烏丸で積み残し連続となったからです。京のビジネスの中心・烏丸通、活況に湧く室町界隈、そして学校。昭和39年3月から7年余り、市電は連結運転を烏丸通中心に行いました。次はワンマンカー仕様になっていました。市電の一日当たりの利用者数の最大であったのは38年度ですが、既に赤字経営となっており合理化の一環でありました。ワンマンカーとして運用されるようになったのは39年6月からでした。
この頃、地下鉄建設の計画も発表され、40年12月には市電軌道敷内へ自動車の乗り入れが許可されるなど、路面電車である市電の役割はもう終わったと言う人も増えました。自動車時代の到来となったのです。

昭和39年デビューの京都市電2000形、ラッシュ時には連結運転を行う画期的な車両だった。そして、コバルトブルー&クリームの塗装が、京都市電の明るい未来を確信させるような斬新なカラーだったが、長続きはしなかった。いま梅小路公園に2000形が保存展示されているが、出来ればこのカラーに塗り替えてほしい(「京都市電が走った街今昔」より転載)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください