最近、当欄では音信不通になっている“た~ちゃん”が、病院帰りに訪ねて来られました。体力・気力の衰えから、投稿・コメントが滞っている理由を聞かせてもらったあと、“これなんやけど”と差し出されたのが右の写真の資料でした。聞けば、数年前に京都の染色業界向けの機関誌から原稿依頼を受けて、連載をしたものでした。《路面電車から街づくりを考える》のシリーズタイトルどおり、京都市電の歴史から、欧米のLRTまで、路面電車の蘊蓄が詰まった好個の読み物になっています。
“これを、ぜひデジ青に載せてくれ~。ワシの思いが詰まっているんや”。なるほど京都で生ま育った、電車が大好きな“た~ちゃん”ならではの内容です。“介護投稿”の一環として、しばらく本シリーズを綴ることにしました。来年80歳を迎える“た~ちゃん”、これが決して遺言状ではなく、これから一層の活動を願ったエールとして綴っていきます。
京の町に電車が走り出したのは明治28(1895)年、今から103年前のことです。2月1日に東洞院塩小路下ル東海道線踏切南~伏見下油掛で、京都電気鉄道(株)が営業開始したのです。これが日本で最初に実用化された電車です。東海道線踏切南とは、現在のルネサンスビルの東南端、駅弁やの萩の家さんの前あたりになります。ルネサンスビルの北角には鉄道友の会が建立した記念碑があります。
いまの京都駅の敷地は御土居の跡で、官設鉄道が明治10年に大阪から伸びてきた時の京都停車場(駅)は、現在の駅前広場に位置しており、東海道線が東伸して時のルートは今より北側だったのです。踏切を越えた所は竹田街道の出発点、東九条村を突き抜け、札の辻を経て南下、竹田村の東べりを街道は辿っていました。古い地図を見ますと、東九条、竹田村以外に集落はなく、田圃の中をゴトゴト走っていたのが分かります。そして伏見の町の西北端、棒鼻です。町並みを避けて西へ廻り、左折右折して下油掛です。油掛地蔵の西隣、羊羹で知られる駿河屋さん脇が終点でした。ここにも石碑があり、お店には写真もあります。 ▶駿河屋前の「電気鉄道事業発祥の地」碑
2ヵ月後、電車は駅から岡崎公園に向かい、開通しました。岡崎公園で第4回内国勧業博覧会が4月1日から開催されたからです。新間ノ町通から枳殻邸北側を経て木屋町五条へ出ました。高瀬川べりを二条へ、鴨川を渡って岡崎橋へ。ここから疏水べりを南禅寺橋前(水利事務所前)まで。ここが終点でした。
京都人が誇る疏水、これを利用しての発電事業。今も残る疏水の赤煉瓦造りの発電所から日本最初の電車へ、西陣を始めとする、点在する工場の動力の電化のため電気が送られたと、京都市刊「京都の歴史」は記しています。京の町の近代化の一つとして語り継ぎたいものです。
◀地図は大西友三郎著、毎日新聞連載「チンチン電車物語」から転載▶
明治28年京電伏見線の路線図を見てどこかで見たようなルートと思ったら車石の図録にあった竹田街道ルート図でした。日本で最初の電車が走ったのが京電伏見線とのことですが、図録の説明を読んでみると京都ー大津ルートよりは早い時期のものだそうです。ところでなんで伏見へのルートが最初の電車路線になったのでしょうか。既に官設鉄道が大阪-京都間に開業していたのですから淀川の舟運が盛んであった頃に比べれば伏見港が賑わっていたとは思えないのですが。
なんで伏見へのルートが最初の電車路線になったのか、ですが、“最初”については、たまたまだったと言われています。計画では、京都駅から南に伏見へ、北へ博覧会場の岡崎へ、ほぼ同時期に工事着工されたのですが、北部は市街地のため、用地買収に手間取り、人家の少なかった南部の工事が早く進んで、“最初”の称号を得たと言われています。その敷設目的ですが、“た~ちゃん”著「京阪特急」に書かれています。沿線からの博覧会場への輸送が第一目的であり、また、淀川の船便からの乗換客を京都市内への移送も目的のようでした。たしかに官設鉄道は大阪~京都を結んでいますが、淀川から離れた山側を走っており、また運賃が高く、大阪や京街道沿いからは、淀川・京電ルートがよく利用されたと言うことです。
淀川の舟運は淀川河川事務所のHPによると大阪八軒屋から伏見まで蒸気船(外輪船)が多い時には14隻がっ就航していたとあります。夜行便も
あった様です。そうすると京電ルートは当時はよく利用されたのですね。よくわかりました。ありがとうございます。