出石の記憶をたどる

去る12月21日付けで投稿しました79547拙稿に対して 1900生様からコメントを頂きました。自分の記憶も定かではないので当時のメモを探してみたところ 確かに1900生様と出石に行ってはいるものの、どうも登場人物が違っているのです。

私が出石に行ったのは 昭和48年6月10日(日)で まず加悦に行ってキハ08を写し そのあと大江山鉱山跡を経由して出石に入っています。山越えしていますので、鉄道ではなく京都からクルマで行ったと思われます。出石駅跡のメモが残っていました。

昭和48年6月10日 出石駅跡付近の様子

メモの上には この日の参加者名を実名で書き残しています。Y氏=鉄鈍爺氏、K氏=1900生様、私、もうひとりのK氏とH氏は後輩です。要するに米手作市殿はおられないのです。更に わんこそばのエピソードに関しては全く覚えが無いのです。多分1900生殿は別の機会に米手作市殿と出石に出向かれたのではないでしょうか。

さてご記憶通り 出石駅跡に始まり廃線跡のここかしこに痕跡が残り、あちこちで止まり止まり江原まで行ったのは間違いありません。まず出石駅跡には農業倉庫が残っていました。

昭和48年6月10日  出石駅跡の農業倉庫など

RMライブラリNo.131に安保彰夫氏著「出石鉄道」があり、その中に昭和14年に西尾克三郎氏が撮影された6号機の写真があります。この背景に写っているのが この農業倉庫です。

RMライブラリ131 安保彰夫氏著「出石鉄道」P.32から引用

出石駅と次の鳥居駅間にあった菅川と出石川の合流点と思われる場所のメモもありました。各地点での写真もかなり残っています。

出石川と菅川との合流点?

出石鉄道が不要不急鉄道として営業休止命令を受けたのが昭和18年12月ですから、その30年後に訪ねたことになりますが、しっかりと痕跡を辿ることができました。その現地訪問からもう43年が過ぎました。

ところで同じメモを見てゆくと、この現地訪問から4ケ月後に加古川市在住のY氏宅を訪ねて 出石鉄道の現役時代の話を聞いていることがわかりました。どうしてY氏のことを知ったのか、ひとりで加古川まで行ったのかなど全く記憶がありません。「赤穂鉄道からSLを借りた? 1日5往復程度の運行だった。開業時にガソリンカーが定員オーバーのためバネが損傷した。撤去されたレールは舞鶴港まで運ばれて終戦になった。」など断片的なメモだけが残っていました。

何より信じられないのが 当時我が家には父のサニー1000という1000ccの乗用車があって多分それに5人が乗って京都から丹後、但馬まで日帰りしたらしいということです。今なら高速道路で楽々日帰り圏でしょうが、よくそんな無茶をしたものだとわが事ながらあきれてしまいました。いずれにせよ1900生様のおかげで思わぬタイムスリップをさせて頂きました。米手作市様、鉄鈍爺様のコメントを是非お願い致します。

 

出石の記憶をたどる」への8件のフィードバック

  1. 西村様
    出石鉄道跡の調査レポート、ありがとうございます。糸崎の廃線跡でも、そうですが、西村さん作成のマップが、たいへん分かりやすく書かれていて、私も現場にいるような感じでした。ところで、調査年月にいろいろな説が出ているようですが、「青信号」にちゃんと書かれていましたよ。
    「青信号30号」に当時1回生のH君が「出石鉄道を訪ねて-中間報告」として書いています。冒頭を写しますと、「この出石鉄道探索は、廃線跡の研究として院生の西村氏がかねてから計画していたことで、歓迎旅行が加悦になった機会に、6月10日に出石へ行って廃線跡に沿って車を走らせた。同行者は、西村氏のほか、OBのY氏(本誌では実名、以下同じ)、K氏と、1回生のK氏と私であった」とあり、西村さんの記述とぴったり一致します。以下、6ページにわたって、H君が詳細に書いています。
    何を隠そう、私も後日、出版社の依頼で出石鉄道跡を取材することになったのですが、当時、詳細なレポートは、この青信号において他はなく、ひそかに6ページ分を切り抜いて、現地へ持参したのです。たいへん参考になりましたよ。なお、同誌には、「失われた鉄道研究会(仮称)発足」とあり、今後も各地で同様の活動を進めて行くことが書かれていました。

    • 総本家特派員様
      さっそく青信号30号を見てみました。H氏が詳しく記録してくれていて、なつかしく一気に読みました。てっきり日帰りで行ったと思っていましたが、前日は加悦での新入生歓迎旅行で1泊していたということで納得しました。H氏のレポートで5万分の1の地図をどのようにガリ切りしたのだろうと変なところで感心してしまいました。権兵衛餅の話が出てきますが、現在も湖月堂さんの銘菓として売られているようです。「失われた鉄道研究会」は打ち上げ花火で終わったきらいがありますが、40年を経て広島県で細ぼそと続いています。貴重なコメントありがとうございました。

  2. 西村雅幸様 昭和48年6月10日の出石鉄道訪問については青信号30号に当時法学部1回生だったHさんが「出石鉄道を訪ねて-中間報告-」として投稿されています。自動車は赤いサニーだったと思います。つまらないことですが 卒論実験で鉄の塊をトランクに載せた時に、リアのバネが折れそうなぐらいに後部が沈んでいたのを覚えています。とにかくサニーも酷使されていたようです。そういえば馬堀に行くとき、T氏のボローバード?6名乗っている時に交差点で止まった時、お巡りさんに見つかって1名下ろされたこともありました。隠れてもダメでした。とにかく、当時は今では考えられない無茶をしていたようです。記事を読んでみるとイロイロな怪しい話が出てきますので、持っておられたら一読に値します。私は青信号の名作のひとつではないかと思っています。ところで、平成27年2月13日から5月6日まで豊岡市立歴史博物館-但馬国府・国分寺館-で出石鉄道の企画展があったことを終わってから知りました。そこの博物館ニュース40号に企画展のことが書かれています。ところで、今は廃線跡はどのようになっているのでしょうかね。

    • どですかでん様
      コメントありがとうございます。そうです、赤いサニーです。ゼミの実験用の材料を南区の鋼材屋に買いに行ったり、京大の電算センターや草津の鉄工所などによく走りました。もちろんクラブのレイアウト作りや撮影行にもボローバードとともに活躍しました。但馬国府・国分寺館の企画展のことをどうして知ったのか覚えていませんが、同館から博物館ニュース40号を取り寄せています。出石に限りませんが、また貴君とどこかの廃線跡探索をしたいと思っております。

  3. ご投稿下さった皆さま
    小生の投げた小石から廃線跡探訪談義が広がった結果、記憶の誤りや曖昧さを指摘・修正して頂き感謝申し上げます。探訪の旅程や赤い車の記憶は一致しましたが、同行者のメンバーや人数はやはり記憶が薄れておりました。いわんや北丹~加悦はどう考えても辻褄が合わず、記憶を検証せずに記述したことをお詫びします。
    それにしても西村さまの几帳面さには頭が下がります。もう当時からメモや地図をとっておられたのですね。整理の悪い小生にはとても真似できない神業です。そして何気ないそういうメモがこうして後々の宝として甦ってくることを再認識しました。
    また青信号誌にレポートが載っていたことは初めて知りました。総本家さま、情報を有難うございました。
    米手作市さま
    というような次第で、ソバ一皿失踪事件で事実無根の疑いをおかけしたことを深くお詫び申し上げます。40年近く米手さまと同行したと思い込んでおりましたが、別の機会に出石へご一緒したことはありましたでしょうか?ひよっとするとぷるぷるさんと3人でしたか?もう記憶はカスミの彼方です。

    • 1900生様
      カスミが少し晴れたようで何よりです。人間の脳はよくできていてメモリーフルにならないように自動的に忘れるようになっています。私も最近物忘れが激しく、家内からもよく笑われております。それより不思議なのは 私の糸崎の話からなぜ出石が思いおこされたのかという点です。

      • そうですか、そんなに不思議に思われましたか。恐らく「遺跡(廃線跡)探訪」というキーワードがまさしく鍵となって記憶の引き出しを開けたのだろうと思います。もちろん根底には西村さまとご一緒した出石が楽しかったという記憶があったからだろうと思います。西村さま~探訪~出石、というような連想からでしょうか。
        同じ出石でも米手作市さまと別の機会に行ったのか行かなかったのか、これがハッキリしません。出石ソバではキーにならないようです。米手作市さまのご記憶に頼るしかないようです。

  4. いつの間にか私が話題に出ていたようですね。
    今まで見ていなかったので失礼しました。
    私は出石へは行っておりません。個人的には「皿そば」を食べるために度々行ったことがありますが、出石鉄道跡の探訪はしたことがなく私以外の方でしょう。
    謎が残ったままになりましたが、お許し下さい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください