西のC59・C62 全記録   (2)

昭和41(1966)年8月 再び呉線へ

初めて呉線へ行ってから、5ヵ月後に、早くも二回目の呉線行きとなりました。初めて見たC59・C62の印象は強烈で、高校2年生の夏休みに再び夜行に乗って広島行きとなりましたが、今回は家族で山陰方面に旅行へ行ったあと、米子から一人で広島行き夜行「第2ちどり」に乗っての広島入りとなりました。「ちどり」は、木次線、芸備線経由で米子~広島を結ぶ陰陽連絡で、昼行、夜行の各1往復、同径路で鳥取~広島の「いなば」もあり、あの木次線に3往復もの急行が走っていたのです。広島には5:05到着、以降は初回と同じ列車で糸崎へ移動、区での撮影となりました。今回もフィルムの劣化だけでなく、フィルム現像の際、真夏なのに20度の適温に冷やさず、30度近い水温そのままでやってしまったため、超荒れ荒れの粒子になり最悪の状態、フィルム現像を初めて覚えた頃のほろ苦い思い出となりました。山陽本線広島~小郡電化が完成したのが、訪問3年前の昭和39年10月、本線(広島では、山陽本線のことを“本線”と言い慣わしていた)の完全電化が成ったものの、電機の新製が追い付かず、C62の牽く列車が広島以西で見られたことは、(1)でも記したが、それを確認できる唯一の写真を撮っていた。広島駅5番ホームに8:12到着の徳山発呉線経由糸崎行きの624レで、C62 28[広転]の牽引、朝の通勤最適時の到着のため、客車12両の長大編成でも満員の到着だった。同機は、翌月の昭和41年9月には二休となり、その後に廃車されている。

広島駅に到着の広発宇品行き927レで、広島までC62 34[糸]の牽引、宇品行きなので、C62は切り離されて、D51が編成の後部に付いて、折り返して宇品に向かう。広島からは8:22発の624レに乗って、前回どおり呉線経由で糸崎へ向かった。途中の安芸津で編成全体をとらえる。こんな駅にも、給水ポートと灰落としのピットがあった。忠海では、定例の「安芸」の通過待ち。この時はC59 162[糸]の牽引、「安芸」はいつでもC59が牽いているようだった。真夏だけに淡い煙だけ残しての通過だった。

糸崎機関区へ向かい、撮影を始めた。帰区したC59 161[糸]が転向するところ。

C59161[糸]はやがて給炭線へ。まもなく廃車になると言う噂の絶えなかったC59のほうに関心が行っていた。側線には、三菱重工で新製されたク5000がズラリと並べられていた。

 

 

 

扇形線には、呉線の貨物を牽くD51 262[糸]と、隣の三菱重工で新製されたばかりのDD51 530が仲良く並んでいた。DD51には早くも「釧」の区名札が差し込まれていた。広島発呉線経由糸崎行き626レが到着、C62 40[糸]の牽引、左は入換のC50で、前部はトラ塗りだった。

626レを牽いて帰区したC62 40、ゆっくり形式写真を撮る。40号機は翌年には廃車となる。

 

 

 

 

 

上り「安芸」の到着。C62に続く10系寝台車の窓が開いているところを見ると、まだ冷房化改造が行われていないようだ。資料を見ると、この時期の同系の冷房化率は40%程度だった。▲糸崎発広島行き623レがC6240[糸]の牽引で発車。、 その斜め後ろから。真夏のカンカン照りで、煙もなく、淡々とした発車だった。

〈MEMO〉宇品線

呉線~宇品線の直通列車が出たところで、宇品線の歴史を。宇品線は広島~宇品の5.9km、途中に5駅あり、全線単線、非電化。当初は日清戦争の人員・物資輸送のための軍事専用線として山陽鉄道が建設、宇品港から出征兵士や物資の輸送を担った。国有化、貨物専用線化、旅客営業の復活などが戦前にあり、原爆投下時には、被害が少なかった南段原~宇品で被爆者の輸送も行われた。戦後は沿線の学校、工場などへの通勤通学輸送、貨物輸送を行い、広島駅では1番線ホーム東側切欠き部の0番線に発着していた。広島電鉄やバス路線の利便性が大きくなり旅客輸送量が減少、営業係数4000を超える全国有数の赤字路線となった。

定期券客を除く旅客営業は、本欄掲載の昭和41年で廃止、広島駅0番線も廃止され、時刻表にも載らなくなった。定期券旅客、貨物扱いも昭和47年に廃止され、使命を終えた。なお、下欄でも当時の広島駅宇品線ホームの様子を伝えています。ご覧くださ.+い。

駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈4〉 | DRFC-OB デジタル青信号

 西のC59・C62 全記録   (2)」への8件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員殿 D高校は修学旅行がなく、旅に行きたい者は自分達で計画して行動しなさいというような校風でした。それを良いことに私も親友のM君と一緒に高1の夏休みに東北均周を手に1週間でしたが東北各地を回りました。カメラはハーフサイズのPEN-Dでした。半分観光旅行でしたが、夜行列車の乗り継ぎでした。小本線が浅内までだったり、一ノ関でD62を初めて見て感激したりと思い出は尽きません。貴君はその高1の春休みに広島に行かれ、高2の夏にも再訪されたのですね。なぜか私は高2のときは遠出しておらず、高3卒業、DRFC入会直前にまたM君と奥中山等の東北巡りをしています。この頃に写したネガは損傷が激しく、情けなくなります。しかし今回ご紹介頂いた写真の数々は、傷みはあっても当時の記録として貴重なものです。広島駅5番線に到着のC6228のコマですが、5番線西側のカーブは今も同じです。昨年7月にほぼ同じアングルで撮った下関からの回送DC列車の添付しておきます。空は見えず、橋上駅化していますが、線路の様子は昔のままです。何よりも注目すべきは、C62横の入換信号機の手前にある客車への給水栓がこの5番線だけには今も数多く残っているのです。回送DCの足元にも暗くて不鮮明ですが写っています。安芸津の給水ポートを初めて見ました。忠海に並ぶツ、ツム達は何を運んだのでしょう? 時期が夏ですから柑橘類ではなく、安芸津はジャガイモの産地ですが、それなら安芸津で積むでしょうし、興味をそそります。糸崎ではクム5000やDD51が発送待ちだったのですね。それらのコマがあれば是非見てみたいものです。

    • 西村様
      D高校で、クラスの違った西村さんやMさんと知り合うのは、高校2年生の終わりごろではないかと思います。それまでは、ずっと一人で撮影に行っていました。現在の広島駅5番ホームとの定点対比、ありがとうございます。カーブの具合はそのままですが、橋上駅化で、こんなに雰囲気が変わっているのですか。5番線の給水栓のことは、以前デジ青でも拝見しましたが、今でも残っているのですね。
      糸崎機関区での三菱重工製の車両は、撮っています。DD51530には「昭和41年8月18日 三菱重工」の立派な銘板を写しています(「釧」の区銘板が差し込まれているように書きましたが、改めて見ると、まだ区名板はありませんでした)。「ク5000」は、順に5004-5003-5002-5006-5005と5両が留置されていました。本を見ると、試作車としてク5000、5001が製造されたとあり、5002以降は量産車として初の製造のようです。写真は撮っているものの、スキャンがまだです。追って報告するようにします。

  2. 総本家青信号特派員様
    私の2回目の呉線訪問は1967年3月29~30日でした。
    前日宿泊した出雲横田の宿から出雲坂根で途中下車をして暫く撮影し、備後落合からC58の牽く857列車で三次まで進み、「たいしゃく」を併結した「第1ちどり」に乗り換え、広島(ヒロ)に入りました。当時は「駅長さんお薦めの宿」として「日本観光旅館連盟」がありましたので、広(クヒ)に下車してすぐ駅の窓口で当日の宿をお願いしました。
    翌日は広が始発になるC59、C62の牽く下り通勤列車を写すべく宿を出ましたが、雨が降っており傘をさしての撮影になりました。広からは総本家青信号特派員さん御用達の624列車に乗車し、忠海で交換した下り「安芸」を撮っています。この日の牽引機はC62でした。今の忠海はウサギの島として有名になり、若い女性やインバウンド客が多く下車しますが、当時も国民休暇村はありましたが毒ガスを製造した島として記憶されていました。
    雨が降っていたので、糸崎から山陽本線の笠岡まで乗車し、井笠鉄道に乗り換え鬮場車庫を訪問しました。当時は何の情報もなく翌日が廃線となる神辺線・矢掛線の最終運行日であることを知りませんでした。社員の皆さんが最終列車の飾りつけを行っている忙しい中、記念撮影まで参加していただき感激の一日となりました。

    • 忠海の項目で記述漏れがありました。ウサギの島は忠海港から渡船で渡る「大久野島」です。

    • 快速つくばね様
      二回目の呉線訪問のレポート、ありがとうございます。私の2回目も夜行「ちどり」での広島入りでしたが、つくばねさんも昼行「ちどり」での、広島入りだったのですね。実際、「ちどり」は陰陽連絡で多くの利用があり、一等車(グリーン車)も連結した列車で、今で言えば「やくも」のような存在でした。忠海でのC62同士の交換の写真も拝見しました。この角度のC62は、迫力があって大好きです。帰りに最終日の井笠鉄道にも寄られたのですか。私も行き帰りに笠岡駅に停車している、小さなDCは何度も見ているのですが、早く呉線に行きたい思いがあって、一度も途中下車しなかったのが悔やまれます。

  3. 総本家青信号特派員様
    電化の始まる前の広島以西のC62no写真です。既に架線が張られています。総本家さんが撮影されたC62の28号、40号、34号の順に並べました。最初は呉線とは異なる山陽本線神代-大畠間の海辺での撮影です。ブル―トレインの撮影を終えて大畠駅に戻る途中で撮った広島運転所の28号機の荷物43列車東京発熊本行きです。もう少し、うまく撮るべきでした。

  4. 次に名古屋発601列車急行「さつま」鹿児島行きです。C6240[下関]は急行らしく飛ばしてきました。なお、上の写真撮影日は鳥栖からの夜行列車で着いた1964.4.3です。文中「no→の」の間違いがありました。失礼しました。

  5. 3枚目はブルートレインが既にC62の前にEF60500番台がついた電蒸運転でしたが、「あさかぜ」博多行きだけは前に邪魔ものがついておらず逆に慌ててブレてしまいました。牽引機はC6234[下関]です。撮影は1964.7.24
    横川-己斐(西広島)間です。上の写真の「さつま」も同じ区間の1日前1964.7.23です。

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