昭和44(1969)年3月 1年ぶりの呉線へ
ふたたび呉線に移ります。前回は昭和43年3月の呉線行きでしたが、この年の10月にはヨンサントオ改正がありました。呉線には大きな変更はなく、列車番号の変更や、一部ダイヤの手直しで交換駅の変更が行われた程度でした。いっぽうで、昭和45年10月を目指して行われている電化工事は着実に進み、全区間でポールの建植が進んで来ました。DRFCでは、ちょうど昭和44年春の“狂化合宿”が呉の音戸ロッジで行われることになり、絶好の機会と、例によって九州方面との撮影と兼ねて、1年ぶりの呉線入りとなりました。
▲「安芸」にヘッドマークが付いた! 何の予告もなく、雑誌に掲載されて驚いたことを覚えている。蒸機牽引の優等列車は、特急にはヘッドマークが付き、急行には無いのが、われわれ世代の常識で、“ヤラセ”っぽくて違和感を感じたものだった。「あき」とかな書きしたのも気になる。改めて写真を見ると、ヘッドマークより、続く客車に眼が奪われた。ヨンサントオでカニ38などの荷物車の連結はなくなり、機関車+ハネフ+ロネ2両+ハネ‥が通常編成だが、なんとオロネ10が3両、間に挟まっているのは、10系ではなく、青色に塗られたスハネ30のようだ。安芸幸崎~忠海
▲今回は、まず夜行鈍行に乗って、呉線で一日撮ってから、九州へ行き、その帰りに呉線の合宿に参加することにした。未明に糸崎に着き、始発列車までの間に、糸崎区で写すことにした。
▲糸崎機関区では、庫の内外で休んでいるC62を撮影。▲一番列車に乗って初めて安芸幸崎で下車、忠海方面に歩く。1年前に行った須波~安芸幸崎と似た海岸べりを行く光景が撮れる。残念ながらポールは建植済みだった。
▲海岸線に沿ってカーブが連続する。入り江越しにD51 262[糸]の牽く貨物を撮影。▲ポールは山側に建植され、順光となる海側からはポールの影響をほとんど受けないのは幸い。C59 164[糸]の牽く624レを撮影。
▲午後からは安芸幸崎方面に戻り、昨年と同じ須波~安芸幸崎のみかん畑にやって来た。山側からの撮影になり、ポールは避けられない。広島発糸崎行き626レ
▲みかん畑をさらに上へ登ってみると、瀬戸内海に浮かぶ島もよく見える。少し前に訪れていたらと悔やまれた。▲上り貨物676レ D51 489[糸]の牽引。
▲本命の上り「安芸」の通過、これもポール前に晴れていたら‥‥の光景となった。
総本家青信号特派員様
呉線の後日談です。
社会人になり高松、広島と連続する出張で先輩社員と一緒でしたが、「高松-広島」間に1日の移動日があり、先輩社員は当然の如く宇高航路、宇野線、山陽本線の経路を選択しましたが、私は予讃本線、仁堀航路、呉線で向かいますと言った時の先輩社員の顔が忘れられません。1970年8月26日の呉線電化の直前でしたが仁方で降りるとウグイス色(黄緑6号)に塗られた73形電車が習熟運転をしていました。仙石線となんら変わることなく、この時、呉線は終わったと思いました。
広島駅で発車待ちの626列車です。
快速つくばね様
電化直前にも呉線に行かれているのですね。はい、私も電化直前に行ってウグイス色のゲタ電を見ました。蒸機列車の置き換えでなく、試運転だったので、いい記録ができたと喜んでいましたが、たしかに仙石線の松島海岸当たりの雰囲気でした。
総本家青信号特派員様
この場所ですね。
1967年12月31日の624列車です。