西のC59・C62 全記録   (5)

翌日は、山越え区間へ  昭和43(1968)3月

須波付近の海岸沿いで撮影した日は、尾道へ戻ってY・Hに一泊、翌日は、勾配区間の安登付近へと向かいました。安登を頂点にして16‰勾配があり、安芸川尻寄りでは海を入れて、撮影もできますが、途中にトンネルもあり、高校生としては難度が高そうで、トンネルもなく開けた地形の安浦寄りのカーブで撮ることにしました。東京行き急行「安芸」を牽くC59 161 上り列車に対しては下り勾配となるため、見せ場はなく、淡々として通り過ぎて行った。今日も「安芸」は、上下ともC59だった。

尾道Y・Hに泊まり、糸崎から呉線の列車に乗り換えて、風早で交換する624レを窓から撮影。以前、同じ写真を本欄の「窓から写した‥」シリーズで紹介したところ、西村さんが、現地へ行っていただき、同一地点の対比写真を載せていただいた。

「窓から写した駅・列車-3-」に寄せて | DRFC-OB デジタル青信号

安登で下車して駅前の道を戻ると、右手に線路と並行し、やがて大きくカーブする。内側に電柱はあるものの、きれいに編成が収まる。広島発糸崎行き626レは、C62 15の牽引。さらに歩くと、直線にはなるが、両側に自由に上がれて、やや俯瞰気味に撮れる。下り「安芸」はここで撮影、安登までの上り勾配のはずだが、たいした煙もなく、通り過ぎた。荷物列車も上下が通る。上は汐留行きの荷44レで、C62 17が荷物車10両と、普通列車よりも長い編成を牽く。左の鳥栖行き47レは、D51 761の牽引、初めてD51の牽く荷物列車を現認した。

 

貨物も撮影する。下り貨物はD51 760の牽引、右は上り貨物を牽くD51 755、いずれも当時はゴマンといたD51の標準機で、“来たから撮る”程度の対応だった。

 

 

 

 

つぎはDC、広島発岡山行き急行「吉備」

 

 

 

普通列車は、キハ25 29先頭の640D。始発は周防富田と、徳山のひとつ西の駅。11時前から、安登付近のカーブ区間で粘って7時間余り、そろそろ薄暗くなってきて、18時過ぎの623レで仕舞いにしようと思い、1時間以上前から場所を決めて、ひたすら待つ。フィルムの残りは少ないが、何とか写し終えれば、明日から北九州で新しいフィルムから写せる。そう考えながら18時05分、山影からドラフトが近づいて来た。今日、最高の煙だ。しかも速度も遅い。何度も巻き上げで連写する。そして、ベスト位置に来た時、ここぞと巻き上げて撮ろうとすると、硬くて巻き上げられない ! そこでフィルムは終わりだった。

この頃は、常用はSSフィルムだったが、露出の厳しいケースの時は、長巻のトライXを使っていた。真っ暗な押し入れで、長さを測って、貰って来たパトローネに装着するが、測り方が適当だと、2、3枚の誤差が生じる。今回も、思わぬ失敗で、ガッカリしながら、駅へ引き上げた。

 

  西のC59・C62 全記録   (5)」への11件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    5回目は、4回目の続きで四国旅行の帰りの12月31日です。この年の四国は南国の割に各地で降雪があり、宇和島や徳島近辺で雪化粧の写真を撮ることができました。前日の夜行は、高松から八幡浜行「うわじま」と須崎行「足摺」の臨時急行を併結した客車列車を利用しました。牽引機はDF50でしたが、年末の多客期で他の管理局から車両の応援を求めるわけにいかず、四国内の客車区からの寄せ集めの編成で、四国では最上級の青15号に塗装された近代化改造後のオハ35やオハフ33も含まれていましたが、四コマのオハ61も入っていました。
    松山で下車し堀江まで戻って、仁堀航路の7:10発の2便で9:15に仁方に到着しました。仁方-安芸川尻間を歩き、下り「安芸」を撮影後、今回は気動車列車で糸崎入りをしました。糸崎機関区ではC62を中心に撮影しましたが、電気機関車の駐機場にはロイヤルエンジンのEF58 61が停まっており、下り「安芸」を東京から牽引してきて上り「安芸」を牽引するまでの小休止のようでした。この頃61号機は急行「安芸」の牽引専用にあたっていたようで、本業のない時の丁度良い足慣らしであったようです。
    この年は、結果的に4回呉線を訪れました。

    • 快速つくばね様
      興味深いルートで呉線行きをされているのですね。私など、撮影の効率だけ考えた旅ばかりしていて、当時の鉄道ならでは変化ある旅をしたかったと今頃思っています。改めて四国の夜行列車を見ますと、小さな四国のこと、高松発は日が改まった0時過ぎの列車もあり、昭和60年代になって、普通夜行列車が新設されたことも、四国らしい話題です。
      「安芸」のゴハチ61牽引は見たことがありませんが、予備機の60号が牽いているのを見たことがあります。荷物車にも側面が総シャッターのカニ38も連結されるなど、興味深い列車でした。

      • 総本家青信号特派員様
        前日の「赤いランプの始発列車」が停車している高松です。函館や青森もそうですが、接続する列車が入線し連絡船が着岸する前のホームには独特の静寂の時間がありました。気動車王国の四国は定期の優等列車はすべて気動車化されていましたので、この年の年末唯一の臨時の客車列車でしたので選択して乗車しました。
        今回初めて気づきましたが、この頃から四国支社は線名から『本』を省略し、「予讃線」、「土讃線」と案内していたようです。臨時列車は八幡浜行と須崎行の併結でしたが、連絡船から乗り換えた旅慣れた人はサボの色で故郷への列車の行先を識別していたようです。

        • 快速つくばね様、
          高松駅5・6番線の写真、ありがとうございます。雑型客車による臨急客もJR化前まで(どれくらい前かは定かではないのですが)は残っていたようです。
          昭和56年12月25日の局報号外を見てみると、12月29、30日は宇和島行きのDC(9601D)なのに、12月31日は八幡浜行きのPC(9603レ)となっています。これは、八幡浜からこんぴら・善通寺初詣用の団臨急「はつはる」号(9614レ~9101レ)に充当されました。予讃線各駅で団体を募るため、時刻表にも、マルスにもない列車でした。もしかすると、昭和42年当時からこのような運用だったのでしょうか?
          サボの運用表を貼付いたします。4号車は、縁起を担いだのか欠車です。

        • 四方誠様
          ご無沙汰しています。
          もう一枚、宇高連絡船の接続を受け31日に日替わりしてからの写真がありましたので貼り付けます。種別札には新品の「急行」が入っていましたが、愛称札は入っていませんでした。客車は近代化改造後のオハフ33 1533ですが、高松駅発車時の乗車効率は50%ぐらいでした。

          • 快速つくばね様、
            オハフ33 1533のお写真を見ていると、お客さんも前の席に足を投げ出しておられるようで、少しは楽な姿勢で帰省されたのかと思うとほっとしてしまいます。
            ちなみに、私はこの車に1983年7月25日の221レで三縄~大王(信)間を乗車していました。
            また、路線名の「本」も確かに時刻表以外では見ないですね。多度津駅上り方にある道路の跨線橋の銘板も貼付写真のようになっていました。

        • 快速つくばね様
          「赤いランプの始発列車」時代の高松駅は、実見したことがありません。蒸機の時代は、ついぞ四国に足を踏み入れることはありませんでした。櫛形ホームに停車する列車でひとつ思い出しました。DC急行に付けられていた円板のトレインマークヘッド、あれは当時、四国支社に勤務だった須田寛さんが考案されたそうで、複数の列車が停車していても、行き先、方面が即座に視認できるように、徹底してシンプルなデザインにしたと述懐されていました。

          • 総本家青信号特派員様、
            DC急行のヘッドマーク、局報では「ヘッドテールマーク」と表記されていました。確かに最後尾にも掲出するので間違いのない表記かとは思いますが、面倒くさいところだなぁ、とは思ってしまいます。
            須田さんの思いも届かず、誤乗するお客さんも多かったようです。ある年の元旦に予讃線方面の601Dに乗るつもりが後続の土讃線方面731Dに誤乗、多度津駅で下車されましたが、多度津駅では約5時間後の「はつはる」が接続したものの全車座席指定でしたので、駅員さん同士が「立席急行券でも売るか」的な会話をされていたことを思いだしました。

  2. 総本家青信号特派員様
    私も安登駅には何度か降りています。安浦側の小高い場所は私も撮影してました。4枚目とほぼ同じ位置で右側の上あたりで撮影してました。この時は新大阪から急行『ななうら』で広駅で下車、駅で撮影後安登に移動しましたが、食事抜きの為か暑さでバテてしまい、下り『安芸』撮影後駅まで戻りしばらく休憩していた記憶があります。1967.07.29の撮影で、キネマ旬報増刊号に投稿しています。

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