【99425】 北のC62 全記録 〈1〉

“盆休み”のためか、本欄も開店休業の状態が続いていましたが、急に涼しくなってきましたので、私もこのあたりで復帰することにしました。先日は、ベテラン蒸機ファンの集まりに、準特急さんとともに参加する機会がありました。歳を重ねても、蒸機や鉄道写真に、ハンパないほどの情熱を持った方ばかりで、口角泡を飛ばして話が交わされます。話題は、実にさまざまですが、われわれの年代のこと、今や伝説と化したC62重連の話がよく出ます。
世のなか、エポックメイキングな社会事象の体験の有無で、世代を区分することがあります。たとえば前回の東京オリンピックであり、関西では大阪万博、阪神大震災と言ったところでしょうか。鉄道趣味においても同様で、C62重連は、まさに鉄道趣味史を時代区分する、歴史的な事象だと思います。私が経験したのはC62の末期に過ぎませんが、C62の時代を共有できた人間としては、復活蒸機しか知らない、若いファンや熟年復活組とは違う、ひそかな誇りを感じています。
私が初めて北海道に渡ったのが、ちょうど50年前の昭和43年8月のことだった。ほかの蒸機や私鉄も健在で、C62だけ目当ての渡道ではなかったが、初めての北海道で対面したC62との感動は忘れられない。当時は、通勤列車も牽いており、以前雑誌で見た同じ光景を撮りたいと、夜行列車で大沼へ来て、大沼を発車して函館へ向かう列車を、駒ヶ岳バックで撮った。

前述の会合でも、近々に東京で開催される大規模な鉄道模型ショーで、C62重連の動画を発表される、著名な方がにこやかな表情で参加されていました。ブラスト音が、よくジェット機に例えられるC62重連ですが、同席されたジャンボ機に何万回と乗られている元機長に確認すると、「うん、そうや」と大阪弁でおっしゃっていました。C62のシンダの量も、実際に乗った人間でないと分かりません。まさに五感で、その迫力を感じるものでした。
ところが、C62重連に関しては、趣味界の先達は数多く、今まで、数々の名作が発表されています。私のような、凡作・少作では、とても太刀打ちできるはずも無く、長い間、ネガは惰眠をむさぼっていました。でも、その魅力を少しでも伝えるべく、本掲示板で、50年ぶりに公開することにしました。
私が北海道のC62に初めて出会ったのは、大学一年生、昭和43(1968)年8月30日のことでした。と言うことは、ちょうど50年前のことになります。同じ回顧談でも、同月同日の対比は、同時並行的な楽しさがあります。これで思い出すのは、以前ブログ「編集長敬白」を綴られていたNさんです。たしか昭和50年代、北海道から蒸機が消えようとしていた際の旅行記を、何十年後の同月同日に、ブログに綴られていました。それこそ、毎日の食事内容まで克明に綴られており、氏の詩情あふれる写真・文で綴られていました。もちろん、私など北海道旅行の断片に過ぎず、足許にも及びませんが、そのマネでもしたいと思った次第です。

 北のC62 全記録 〈1〉” への4件のコメント

  1. 総本家青信号特派員さま
    待ってました!ついに出ました北のⅭ62!昭和44年8月の狂化合宿時に特派員さまのご案内により初めて上目名で撮影した時のことが鮮やかに蘇ります。それまでにも撮ってはいたものの本格的なものではなく、ちょい撮りのようなものでしたから、C62と鉄道写真の撮り方の手ほどきを受けた者としてコメントせずにはおれません。上目名の目名寄りでスタンバイしていた時の、あのゴーという轟音を聞いた感動は今も忘れません。後にC62 3が復活した際に、再度嵌ったのもこのブラスト音でした。復活しても仕事の都合や「復活やないか」との想いから3~4年間は足が向きませんでしたが、小生の重連経験を羨む会社の後輩の熱心な勧めもあり、断りきれずに同行したのが運の尽きでした。現在のようにLCCも無い時代に大蔵大臣と喧嘩しながら、大枚をはたいて廃止までほぼ毎年行く羽目になりました。後輩に羨ましがられることはともかく、SL就中C62重連の現役時代を過ごせたことは本当に有難いことだったとその巡り合わせに感謝したいですね。

    • はい、お待たせしました。と言うほどのことはないのですが、われわれの世代、鉄道趣味者にとってはC62重連は、シンボルのような存在でした。いま紹介しているのは昭和43年ですが、1900生さんとは、翌年に上目名の151キロポストへ行ったこと、覚えていますよ。私は、そのあとのC623の復活運転は、全く行っていませんが、1900生さんからは、当時の思い出をよく聞かしていただきました。たしかに、今より、ずっと航空運賃は高かったはずで、ハードルが高いなか、よく行かれたものです。“復活”とは言いながらも、限りなく現役に近い列車で、行かれた価値はあったと思います。

  2. 総本家青信号特派員様
    私の最初の渡道は1966年9月1日でした。夕方から雨で連絡船も揺れたと日記に記載されております。函館ではスハ45系の「たるまえ」が既に入線しておりつばめマークのC622が先頭についていました。これには感動しました。土砂降りの函館駅で大ミハ、東スミ、名マイなどのマニを見たことも記録されています。この日上目名で撮ったC62重連「ていね」は後ろの本務機が写っておらず失敗でした。ところで大阪訛りの元機長さんはジャンボよりC51の方が好きだと言ってました。今後の展開を期待しております。

    • コメント、ありがとうございます。高校生の頃から、九州へよく行かれていた準特急さんにあって、北海道へ行かれたのが、大学2年の時ですか、やはり関西の在住者にとっては、北海道は遠い地だったのですね。ジャンボ機長の話は、以前準特急さんが聞かれている時に横で聞いていただけで、また大阪弁ではなかったと思いますが、大阪出身を強調するため、脚色しました。C51のことは、「国鉄時代」最新号の機長のC51記事に、私の保存写真を協力掲載しましたとお伝えしましたら、喜んでいただきました。

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