北のC62 全記録 〈23〉

昭和46年3月26日 最終日、何度も通った上目名、長万部へ
北海道での最後の日を迎えました。通用25日の北海道均一周遊券も期限切れが近づき、今晩に函館を出なければ、期限までに帰宅ができません。夜行鈍行に乗って早朝4時45分に倶知安に着いたあとは胆振線へ回って、二つ目のキュウロクを撮ったあと、今期5回目の上目名~目名となりました。最後をどこで撮るか、何度も行った撮影地で写したい思いが湧き、やはり足は151キロポスト付近へ。通い慣れた道のように線路上を歩いて、カーブの先の具合まで見通せるようになりました。天気はどんよりした空で、時折、降るのは、水分を含んだボタン雪で、雪が消えた道床は、さらに黒々として続いています。151キロ地点に着いて、高台に上がり、この場所を初めて訪れた3年前のことを思い出していました。
3年前など、今なら一瞬のことだが、ウラ若き20歳にとっては、3年の歳月は、ずいぶん昔のことだ。C62も顔ぶれが違うし、列車名も違う。その3年前を思い出して、ほぼ同じ構図で撮ることにした。例によって延々とドラフト音が続いてきて、顔を見せたのは、今日も2号だった。

ところが、強風で煙が巻かれて、見えたのは先頭の2号機だけ、本務機も煙に隠れ、客車に至っては全く見えない結果となった。

そして下り「ニセコ3号」だが、向かうのは長万部しかない。雪のなくなった機関区に向かうと、2号機は、転車台で向きを変えて、給炭線でいつものように静かに休んでいる。しかし、今日は天気が違っていた。空から降ってきたのは、雪ではなく雨だった。おそらく、この地方では、ことし最初の雨なのだろう。

今期は、とくに走りの撮影が多かったから、C62とゆっくり対面する時間も無かった。改めて、各部を撮ってみる。キャブ付近も撮る。タブレットキャッチャーがいかめしい。正面も135ミリで撮ってみる。標準と望遠、正面写真なら違いが無いと思うが、微妙な圧縮効果が好きだ。

 

 

 

 

 

「ニセコ3号」の到着が迫ってきた。2号機はゆっくり引上線に向かう。後部をやや低い角度から見ると、改めてC62の巨大さが分かる。機関士も入れて写すが、まだ列車牽引前だから、表情は平穏そのもの。

 

 

 

 

 

16時36分、「ニセコ3号」がC6215に牽かれて到着し、すぐさま後退して来たC622ががっちり連結された。16時43分発車、2両のC62から黒煙が上がった。
眼前をゆっくり通り過ぎる、C622+C6215、最後の下り「ニセコ3号」、札幌行き。機関士・機関助士の組み合わせもとらえる。本務C6215がドレーンの中に浮かぶ。小雨でボイラーを濡らして去って行く2両の巨体。雨でレール上を滑り“ドドッ”と空転音が響き渡った。

最後は、同業の士も入れて、後ろ姿を写してみた。さらばC62重連。

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この年、昭和46年9月末限りで、小樽築港区のC62の「ニセコ」などの牽引は終了し、DD51に代わります。9月には、なんとC62の三重連までが出現して、当時としては、派手な見送りとなりました。夏休み期間で行けないことは無かったものの、お祭り騒ぎに参加する気持ちはなく、またその後のC623による復活運転の時代は社会人の時代で、物理的に撮影も不可能でした。今回が、私の“北のC62”の終わりとなりました。

結局“北のC62”へは、3回行ったことになります。
昭和43(1968)年8・9月 「ていね」の時代  本欄(1)~(8)
昭和44(1969)年8・9月 「ニセコ」の時代  本欄(9)~(14)
昭和46(1971)年3月   雪の季節      本欄(15)~(23)

いずれも現役DRFC時代で、体力・気力があふれ、感性も持ち合わせていた時代に、C62重連に出会うことができました。あふれる乗客を詰め込んだ客車を牽き、日夜懸命に働く姿は、その後、社会に入って猛烈に働き、成長社会の牽引役の自負を持つ、われわれ団塊の世代の生き方と重なるところがあります。いま70歳を超えた団塊の世代にとっては、生まれたのも同じ昭和23、24年のC62は、まさに団塊世代の趣味者の象徴でした。いゃ、もっと大先輩からは、「C62は東海道・山陽で特急を単機で牽いてこそ本来で、C62重連は“邪道”」と言われそうですが、世代ごとに思いは違うものです。

そして、最後に記したいのは、本欄でその都度記していませんでしたが、ほとんどの撮影はDRFCの仲間と一緒だったことです。仲間がいたからこそ、強行軍にも耐え、一日10キロ、20キロを歩き通し、ともに撮影結果に一喜一憂したものです。

C62とDRFCに、50年目のオンライン乾杯(!)です。

 北のC62 全記録 〈23〉」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    ”北のC62”への熱い思いと、素晴らしい写真の数々を拝見させていただきました。山線のC62重連は当時中学生だった小生にも憧れの存在で、是非とも自分の目で見てみたいと思っておりました。しかし、北海道はあまりにも遠く、ファン誌に発表される素晴らしい写真を見ては溜め息をついていたことを思い出します。
    秋に運転されたC62三重連も大きく取り上げられていましたね。中学生には夢のまた夢でした。
    そんなある日のこと、関西本線に運転されていた「柳生号」の車内で、大学生くらいのファンがC62の写真を乗客に売っているところに出くわし、なけなしの小遣いをはたいて買いました。雪の中を走るC62の重連で、先頭は2号機でした。現在の目で見ると、大した写真ではありませんが、当時の自分には宝物のように思えました。
    あと〇年早く生まれていたら…とは言いませんが、総本家様の投稿を拝見して、C62重連に憧れていた中学生の頃を懐かしく思い出しました。

    • 紫の1863さま
      いつもコメントいただき、ありがとうございます。「柳生号」の車内でC62の写真を売っていたのですか。その行為はともかくとして、人からもらった生写真、とくに自分では撮ることが叶わなかった写真は、いつまでも心に刻み込まれていますね。当時、流行ったのは、鉄道雑誌の巻末で写真交換コーナーがあって、私も何回か写真交換しました。今から見ると、もらった写真は稚拙なものですが、私の場合では、仙台駅のC62や、秩父鉄道の電機が、今で大事にアルバムに貼ってあります。

  2. こんにちは。昨年の頃から「北のC62」の連載投稿に気付いて、拝見させていただいています。長編脱稿お疲れ様でした。
    10才下の私の世代になると、やっと鉄道写真を撮り始めるかの頃で、特に九州から北海道に渡ることは、海外に行くような現実で、子供はせいぜい、大判のポスターをもらい、今も大事にしています。(ウラがNISSAN R381というレーシングカーでディーラーの販促でもらいました)
    半世紀前の鉄道シーンで、一番ハイライトだった函館本線の実際は、私は昭和55年に渡道して、ようやく線区や路線の全体像をイメージすることが出来ましたが、こんにちは便利な動画のサイトもあり、達成できなかった場面に遭遇が出来て、実物を見たかった気持ちが再興いたします。
    https://www.youtube.com/watch?v=-KYwdL9xMLk
    当時の動画を8㍉で記録された方の境遇は判りませんが、小樽駅の発車シーンから、これはすごいスペクタクルが、毎日日常として、運行されていたことに衝撃を受けます。
    私は故大西友三郎さんが、撮影された蒸気特急の8㍉を、サークルの関係者で上映会の時に拝見して、大変興奮したことがありますが、今やお茶の間や、居間で動画を見たり、今回の詳細な記憶と記録の伴った、投稿記事を50年後に読むことが、どこでも可能になったり。

    その技術の進歩が補う部分は素晴らしいと思うのですが、実際の対象である鉄道への思い込みや思い入れが、随分薄れてしまったことに気付くと、何を大切にしていけばよいのか、ふと今後の趣味の行方に迷いが出ることも多いです。

  3. K.H.生さま
    いつも思いが籠もったコメント、ありがとうございます。ご紹介のyoutube、見せてもらいました。動画もさることながら、ドラフト音、たしかにこんな感じでした。銀山の通過・タブレット授受も、実際列車に乗って目撃しただけに感動しました。私が初めて北海道にC62重連が走っていることを知ったのは、中学校1年ぐらい、創刊されたばかりの「鉄道ファン」の写真でした。北海道は、KHさんのように、外国以上の距離感があり、とても自分の手で写せないと諦めていましたが、意外にもC62重連は生き延びて、しかも大学生という時期と重なり、今回発表したような写真を撮ることができました。ところがC62重連については、先達の素晴らしい写真が多くあって、自分でも発表することに気後れをしていましたが、こうして見ると“なかなか、え~やないか”となりました。品川530さんのブログに「あと数年早く生まれていたら」は絶対言わないとの箴言がありますが、私にとっては「いい時に生まれてきた」との思いが、70の齢を重ねてきた今、思っています。

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