昭和46年3月22日 初めての塩谷へ
「北のC62」、前回〈18〉では昭和46年3月20日のことを記しましたが、同時期に渡道した分が、あと5日残っています。昭和46年と言えば1971年で、あと一年でちょうど50年前の出来事になります。自分自身では、鉄道趣味人生で、最大の感動を味わったと今も思っているC62重連ですが、これだけ年月が経つと、その感動も薄れてきています。そのためにも、自分としては、最後の記録のつもりで記しておきたい思いがあります。しばらくご辛抱お願いします。
この日は初めて、塩谷に降り立ちました。塩谷と言えば、訪れる3、4年前のNHK朝ドラ「旅路」の舞台になり、小樽築港区の機関士だった主人公の家があったところとして描かれていました。現在、梅小路蒸気機関車館で保存中で、当時は小樽築港区で入換機だった9633が、ドラマの専用機のように出てきたものです。
塩谷は、小樽を出て、山線に入ってから最初の駅であり、背後には小樽の市街地が続いていて、自然のなかを行く重連は望めませんが、角度によっては海を入れることもできて、小樽から延々の20‰勾配が続き、煙はかなり期待ができます。
▲釧路から夜行鈍行に乗って小樽に着き、塩谷まで行って、撮影地に向かった。線路の山側は、家も無く、なだらかな傾斜地になっているので、自由にポジションを選ぶことができる。小樽を出てから、ずっと20‰、R300程度のカーブの連続で、煙の具合も良い。
▲さすがに3月も下旬になると、道床の雪は消えて、線路沿いの残雪も、蒸機・家からの石炭殻が積もってグレーになっている。▲幸い風もなく、2つの煙はまっすぐ上がった。背後の家並みは仕方ないが、ヨーロッパで好まれる、アウトカーブ、やや俯瞰の角度は、やっぱり列車写真の王道だと実感した。
▲列車はゆっくりだから、フィルムは手巻きでも数カットはじゅうぶんに撮れる。編成全体ではなく、キャブ付近にも焦点を当てて撮る。今回は不発だったが、翌日、自分としては会心の作に出合えることになる。▲塩谷で上り「ニセコ1号」を写したあとは、早い目に倶知安ユースに着いて仮眠し、18時前に駅へ向かって坂を下りて行った。C622先頭の「ニセコ3号」が例によって到着。数人が集まって、恒例の夜間撮影が始まる。▲長時間露光すると、回転式火の粉止めのせいで、煙が渦巻いているのがよくわかる。▲C622先頭は、今回、渡道してからずっと続いており、“ほかのカマも見てみたい”と、贅沢な悩みも吐いたものだった。▲5分停車のあと、小樽、札幌へ向けて発車して行く。シャッターをバルブから1/15S程度に切り換えて写す。増感現像できればいいのだが、フィルムは共用だから、そのままの感度で写さざるを得ない。当時としては精一杯の撮影だった。
塩谷と言えば「小樽の人」三条正人を思い出します。三条正人と言えば「大津の人」で当会でも大物を数々輩出した膳所高校の出身です。総本家さんも塩谷に降り立った時にこのメロディーを口ずさんだと思いいます。おっと「月がとっても青いから」はここではなかったですね。 お邪魔しました。
準特急様
「小樽の人よ」、その頃に流行っていましたね。ボーカルの三条正人は、大津市出身とは知っていましたが、膳所高校の出身でしたか。膳所高校は、各界に著名人を輩出しているだけでなく、当会においても、歴代の大物を輩出していますね。調べてみますと、「小樽の人よ」も、朝ドラの「旅路」も、同じ昭和42年のことでした。小樽が注目されていた時代でした。
旅路
山田吾一、日色とも恵主演
NHKが朝ドラのカラー化を目論んで、この番組で照明などのテストをしたところ、熱すぎて困ったと言うことが新聞に出ていたのを覚えている。BOXでこの朝ドラの話を大阪特派員さんとしたのが思い出です。
米手さま
貴重な9633の写真、ありがとうございます。“皿”と呼ばれる回転式火の粉止めや、周囲の光景など、私が撮っていた時代より、数年も前のような感じで、「旅路」以前のものではないでしょうか。このカマは梅小路蒸気機関車館で保存中ですが、開館の一年前、国鉄百年の映画撮影のため、C622などとともに、一時的に梅小路に来たことがあります。その時は「旅路」のキュウロクに再会できて感激したことを覚えています。
昭和39年か40年ですから放送の数年前になりますね。