北のC62 全記録 〈10〉

大沼で上下の「ニセコ」を撮る   昭和44年8月28日

五稜郭で上り「すずらん6号」を写したあとは、大沼へ向かいました。昨年も行ったことがある、駒ヶ岳・小沼を展望する、線路と国道に挟まれた小高い丘に登り、眼下を行く列車を撮りました。函館が北海道の玄関口の時代、続々と列車が走り抜けます。交通の便もよく、大沼はホントに恵まれた撮影地でした。
14時45分ごろに通過する、「ていね」改め「ニセコ3号」を、湖畔に沿ってカーブに掛かるのをとらえる。牽引するのはC6244〔築〕。時刻は「ていね」時代とほぼ変わらないが、大沼は通過、つぎの大沼公園には停車する。「ていね」時代と比べると、食堂車がなくなり、優等車両はグリーン車1両のみで、急行列車としての格が落ちた感じがする。昭和44年5月から、称号が二等車からグリーン車に変更されている。

C62の前照灯は、昨年は“三つ目”だったが、中央の補助灯が外されて、その後の定着した格好となる二つ目となっている。

この付近は、ふつうの複線区間に見えるが、C62の走る、右の下り線は、勾配緩和のために新設された迂回線「藤城線」であり、この先のトンネルの中で、上り線をアンダークロスして、上下線が逆転している。トンネルを越えた地点で待っていると、右側通行に変わるわけだ。ただし、人家は、写真左の従来からの上り線沿いの仁山、渡島大野付近にしか無いため、普通列車は、下り森・長万部方面行きも上り線を走るため、この区間では右側通行となる。正確には複線ではなく、単線並列区間となり、以前の東海道線関ヶ原~垂井(新垂井)~大垣と同じ運行スタイルだった。

一緒に、DRFCメンバーと丘に登り、狭い場所で、肩を寄せ合いながら写した。たまたまメンバーを写していたが、現在では、想像もつかない変貌を遂げている。

この日は、薄曇りだったが、くだんの丘から振り返ると、駒ヶ岳の稜線がきれいに見えていた。15時40分ごろ通過の上り「ニセコ3号」をとらえる。

今回も、京都を出てから、この日に至るまでの宿泊は、夜行2泊(銀河・鳥海)、YH1泊(柏崎)、駅寝2泊(尾登・新津)、YH1泊(象潟)、テント2泊(竜ヶ森)、連絡船1泊(津軽丸)と、まともに畳の上で寝たのは、9泊のうち2泊だけで、かなりの強行軍だった。C62を撮り終えると、さすがに気力も消え失せ、明るい内から大沼駅の近くにある、大沼景雲荘YHへ飛び込んだ。名物と聞いていたカレーを腹いっぱい食べて、やっと生き返った気分になった。

 北のC62 全記録 〈10〉」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    半世紀前の懐かしいシーンですね。当時のメンバーの変貌ぶりは確かに凄いですが、これはもうどうしようもありませんね。たまにそう変わらない人も居られますが。変貌といえばこの写真のおよそ20年後の頃、キハ82系の終焉期と北斗星の運転開始直後頃には、もうこの丘からの撮影は樹木の成長により不可能でした。大沼寄りの中腹に駒ケ岳を望む方向が写せる場所がありましたが、ここも数年後にはダメになりました。藤城迂回線はご説明の通りですが、最近家内が見ていた旅番組でトンネルから小沼へ出た辺り(国道のJRオーバークロス地点)の映像があり、下り方面の2列車が並走していました。ご説明のように複線ではないので時刻さえ合えば並走も有りですが、湖側(藤城線)を貨物レ、山側(仁山経由線)をスーパー北斗が並んでいたのです。一瞬特急の走行線路が理解できずに驚きましたが、すぐに新幹線開業後に特急が仁山経由になったことに気が付き合点がいきました。DD51貨物やトワイライトExpを撮りに通った頃は特急も藤城線経由でしたから、記憶がそのままストップしていたようです。

  2. 1900生さま
    大沼や藤城線の現況、ありがとうございます。われわれが行った丘の上は、もう撮影不可能になっているのですか、道理で最近は写真を見たことがありません。仁山経由線に新幹線開通後には特急が走っていること、知りませんでした。奥さまがテレビで見られたように、下り2列車の併走もあるのですね。最近の特急列車は、大馬力ですから、勾配緩和のための別線など、過去の話になってしまいました。

    • きょう鉄道雑誌の北海道特集を見ていて、初めて気が付きました。仁山経由線にあった渡島大野が、新函館北斗になっているのですね。ですから、仁山経由線に特急が走るのは当然のことです。どうも私の頭の中の鉄道地図は、50年前のままで、現状を理解していないことに恥じ入ります。逆に仁山経由線の運転本数が増加したため、藤城線経由の下り普通列車も運転されていることを知りました。したがって、この区間は、完全な単線並列区間になっています。

      • 総本家青信号特派員さま
        おやおや特派員さまの言葉とは思えないですね。まあ渡島大野と聞けば一発で通じたでしょうけど、あのしょぼくれた、いや素朴な駅が新函館北斗という立派な駅になっても、馴染みが無ければ記憶は当時のままで、認識して初めてアッと驚く何とかでしょうね。昔のように勾配に弱い特急ではないので、ダイヤの混み具合だけの問題でしょうが、仁山を下る上り貨物レも随分少なくなりましたから、なんとかダイヤも確保できているのでしょうね。
        長野新幹線の佐久平駅もそんな感じの駅ですね。小海線のキハ58・52の終焉期を撮るため、夜行急行「ちくま」で篠ノ井~小諸乗換えで朝の中佐都駅で下車し、田園地帯を岩村田との中間地点へ歩いて浅間山や遠景の八ヶ岳を入れて撮ったものですが、その牧歌的雰囲気だった辺りに佐久平が造られ、周辺が開発されてホテルなどが立ち並ぶ都市部に化けてしまいました。初めて佐久平を通った時は余りの変貌ぶりに今浦島になったような気分でした。

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