北のC62 全記録 〈11〉

大沼のYHで久しぶりにぐっすり寝て、生気を取り戻し、普通列車に乗り続けて、一年ぶりに上目名に下車しました。一年を経てもC62の聖地は、まだ穏やかなもので、ほんの数人が降り立った程度です。今回、写真を見返して分かりましたが、この日は、ぶんしゅうさん、1900生さんとご一緒でした。そして、向かった先は、歩いて約一時間の151kmポスト付近。昨年も一度来たところで、周囲が急に開けて、右手にはちょっとした高台があって、ここだけブッシュもなく、難なく上まで到達できます。

上目名~目名151km地点の上り「ニセコ3号」。高台からでも写せるが、C62の迫力を出したかったので、レールよりやや低い位置から狙ってみた。去年と違うのは、この爆煙だ。サービスなのかどうかは知らないが、去年のスカのような煙とは、大きな違い、あまりの煙で、編成が隠れてしまった。

 

高さを自由に変えて撮影できるのは、上目名では、この付近しか見当たらない。ひな壇状に撮影ができるので、後年のC62重連ブームで上目名一極集中が起こった時も、十分なキャパがあったが、結果的には上目名で撮られた写真は151km付近ばかりになってしまった。目名方面へは高原が広がっているのが見えて、開けているため目名を通過するあたりからC62の響きが聞こえてきて、それから数分間、ドラフト音がどんどん近づいてくるのを堪能できる。後志の山々を背景にして、カーブの向こうから、編成が顔を出した途端、三脚に据えたカメラで連続シャッターを切り始めた。列車本位でトリミング拡大して、その連続撮影を見てもらおう。151km撮影地点の様子、モデルはDRFCのお二人。

ものすごいドラフト音を響かせて、一瞬にして二つの巨体が横を通り過ぎる。手を挙げると、機関士も応えてくれた。本日の牽引はC6244+C623だった。

上りの撮影後は、駅の周辺で普通列車などを撮影後、トンネルを越えて、熱郛側へ向かい、下り「ニセコ3号」を狙うことにした。この時も三人で一緒に行ったと思うが、カーブした出口の見えないトンネル内部は真の闇だった。トンネルを出ると、カーブの連続だが、ここは、上りの撮影地と比べると、開けていて、しかも熊笹の背丈が低く、いろいろな場所からの撮影が可能だ。ダイヤ改正で、時刻が昨年より数分繰り下がったため、17時前のこの時間帯、山影を避けて、できるだけ明るい場所を選んで三脚を据えた。

しかし、待つうちに見る見る光量が落ちてきた。トライXでも、F5.6、1/125Sがやっとだった。手前に来た時は、さすがにブレてしまったが、まだ手動巻き上げのフィルム時代、これだけの連続シャッターが切れたのだから、C62重連でも、20‰勾配では極端に速度が落ちる。

 北のC62 全記録 〈11〉」への5件のフィードバック

  1. いつも拝見させていただいています。
    こういった連続のシーンは当事者しか、思い出されないかと思います。
    最近5才上の松本さんがtwitterによく投稿される阪急や記念切符のコレクションは、時代性があり、よく反応が付いています。
    私も、出来るだけ、時代と背景を説明して、Facebookに投稿すると、どういった記事が読まれて、人に感動を与えるのかが、見えてきました。
    生まれた年代、5才、10歳の違いはすごく同時代性の違いが大きいのですが、例えばポピュラー音楽の世界だと、たとえ話がすごく判りやすいと思います。
    アーカイブとして残して行く場合は、記録者や作曲ミュージシャンが、歿していなくなっても、時代感覚が後世の人に理解出来るよう、普遍性を持たせるのが方法かと、最近は考えております。

    • KH生さま
      いつも鋭いコメントをいただき、ありがとうございます。連続シャッターは、今ならカメラ任せで、一秒に10コマは撮れますが、当時は、フィルムを巻き上げ、ピント・構図を確かめてシャッターを切る。これを数秒間の間に何度も繰り返していた訳ですから、そこには撮影者の意図・感情が籠もっているはずです。C62重連が迫ってくる時の撮影者の思いを吐露した表現だと思い、掲載しました。その時の臨場感を感じていただければと思います。
      おっしゃるように、時代感覚が、年齢の異なる世代にも伝わるような、記事・写真が大事だと思います。これからも励んで行きますよ。

  2. 総本家青信号特派員さま
    あの日のことはまだはっきりと憶えていますよ。森で乗換えて上目名へ向かうガラガラの旭川行123レの車中で「SL牽引のこんな贅沢列車に乗れて幸せだ」みたいなことを話し合いましたね。当日の上目名では総本家さまに付いていって教えてもらったわけですが、このパラパラ動画のような感動のひとときが動画とC62に病みつきになるそもそもの原点だったのかもしれません。連続写真を拝見しているとあの時のゴーッというジェット機のような轟音が蘇ります。それまでに聞いていたポピュラーなカマとは全く異なる迫力に驚いたものでした。
    ところで小生はこの半年前の常紋トンネルの話が頭にこびりついていて、トンネルを抜けるのが怖くて熱郛側には行きませんでした。写真もありません。たぶん総本家さまとぶんしゅうさまお二人で行かれたのではないでしょうか。

    • 1900生さま
      50年近く前のことをよく覚えておられて脱帽です。ご一緒したことは覚えていますが、どこで合流して、別れたのかまで、全く覚えていません。まして、車内での会話など、何の記憶もなく、辛うじて、メモを見返して、大沼から上目名まで、普通列車に乗り続けたことが分かりました。
      でも“ゴーッ”という音、これは今でも耳に残っていますよ。鉄道の“音”は、車内アナウンスなどの音声は残っていますが、自然の中のかすかなブラスト音など聞いたことがありません。それだけに、その現場に立つことができたものだけの記憶ですね。

      • 総本家青信号特派員さま
        大事なことは忘れてもそういうことは憶えているものです。非電化ローカル線を主な対象として、主にC56あたりに精を出していた小生にとってはC57やD51も大型機でしたが、やはり天下のC62を撮れるということで、気持ちが昂っていたため印象が強かったのと、C62初体験が余程楽しかったからかもしれません。

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