ここからは難問が続きます。
乙訓の長老は、最初の三枚は同じ物(会社)だと仰せです。写真も不鮮明で判然としません。例によって、いつ撮ったのか、どこで撮ったのかも分かりませんが、ご自分の撮った写真の中では最初かも知れん、とのことでした。
①福島電鉄飯坂西線 昭和23年4月、東京手塚製作所(実態不明)製造による104、105号を導入している。①~③昭和23年頃、野崎氏撮影
②東線の1号型3両を日本車両(東京支店)で車体新造、機器類及び台車も転用したものであった。車体は時節柄木造であったが新車体は巾2,720粍、長10,8m、高3.6mの地方鉄道定規に沿ったもので、ドア配置1D8D1のボギー車でタネ車の車両番号1~3号を引き継いだ。鉄道線番号を100番台に変更したのは昭和24年3月で、その時に101~103と改番された
③これに続いたのが21型(21、22号)で、1号型と同期(昭17年8月)に車体新造されたが、旧車が2軸車であったため4輪車であった。昭和22年にボギー車に改造されたが番号は継続で、その後106、107号に改番された。
④伊予鉄モニ30 古町車庫
▲これは複写写真です。
⑤秋保電鉄 サハ402 長町
⑥富岩鉄道→富山地鉄→富山市内線 ボ2
▲長老の記憶では「左の電柱にヒントがある」らしいのですが、拡大しても地名などは書いてありませんでした。
⑦阪神電鉄尼崎車庫入換用機械 1950年製 国道線散水車改造
▲なにか、阪急臭い!→阪神でした
⑧松電島々線→浅間線→布引電鉄1~3号となった木造単車の布引時代の写真
▲これも複写です。
⑨遠州鉄道奥山線 サハ1103+サハ1108 遠州浜松
よろしくお願い致します。
関連
米手作市様
いずれも手強い面々ですが、3件を調べてみました。④は最も簡単で、伊予鉄道モニ30です。古町車庫だと思います。吉川文夫氏著「なつかしの路面電車視録」に「DRFC-OB」名でこの写真が掲載されています。⑤は秋保電気鉄道のサハ402です。長町での撮影だと思います。秋保は昭和36年5月の廃止ですから、それ以前の撮影だと思われます。⑥は富岩鉄道ボ1形ボ2(大正13年6月大阪鉄工所製)が昭和18年に戦時買収されて国鉄富山港線の買収国電となり、昭和23年には富山地鉄に移り、笹津線、富山市内線で活躍後、昭和34年には加越能鉄道高伏線に移っています。当初は正面5枚窓だったのが3枚窓に改造されたのは、地鉄か加越能時代だそうです。ボ2は昭和55年まで長生きして廃車されています。写真左手の電柱はヒントになりませんでしたが、電柱のすぐ右側遠方に「ケロリン」の広告塔が薄っすらと見えます。黄色いプラスチック風呂桶で一躍有名になったあの「ケロリン」ですが、富山に本社がある内外薬品の製品です。「ケロリン」の広告塔がどこにあったのかがヒントになるかも。
やはり、富山の電車でしたか。富山ではないかと思っていたのですが。左側の電柱に「旅館祥園」とあったので、どこかで「祥園」という名前を見たことがあると思ったのでよく考えてみると富山で見かけたホテルの名前でした。今でも「ホテル祥園」として営業をしているようです。場所は富山中央郵便局近くにあります。写真を見ると交差点のようですので中央郵便局前の交差点で、今の「地鉄ビル前」の富山駅方面の電停で撮ったのではないでしょうか。乙訓の長老様から移籍してきた「鉄道の記憶」という本に富岩鉄道について詳しく載っていました。
どですかでん様
「祥園」を古い時刻表の後ろの旅館リストで探しましたが見つからないので調べるのをやめましたが、さすがですね。こういうのを「土地勘」というのでしょうね。地鉄ビル前と場所も特定できているなら、「ケロリン」の内外薬品の本社との位置関係はどうでしょうか?
それにしても①②③は難しいですね。東北地方のような気もしますが・・・。また⑨の車番の大きな文字が気になっていますが・・・。
どうも富山中央郵便局の所ではなさそうです。内外製薬は広貫堂、大協薬品と3社で新たに設立して富山めぐみ製薬となったそうです。ところで、本社は三番町と言いうところにあり、南富山へ行く路線の西町電停から南東方向の所になります。次の電停の上本町から少し東北東の所ですので広告塔は見えると思います。近くにお寺があります。写真をよく見入るとお寺らしい屋根が見えます。確証がないですが西町電停南側の上本町電停のある交差点辺りではないでしょうか。これ以上はわかりません。
⑦は阪神ですよ。尼崎車庫にいた2軸凸型電動貨車。
確かにかなり昔の写真ばかりで手強いですね。
ここまでコメントのない写真は私もほとんどわかりませんが、⓽は1100代ナンバーの付随車(客車?)ということで、遠州鉄道奥山線ではないでしょうか? 架線も見えますので場所は電化区間の終点だった曳馬野駅構内? ただ手前の線路はニブロクにしては広そうです。またサボも奥山線廃止直前の他の画像とはデザインが異なりますので、もっと古い時代の写真か、あるいは他の私鉄かもしれませんが。
①~③は同じ鉄道(ポール集電の電車?)かと思われますが、私にはまったく見当がつきません。⓼もわかりませんね。
まほろばの鉄趣味住人様
⑨は私もあの大きな文字から奥山線と思ったのですが確証がありません。①~③と⑧はお手上げです。⑧は例えば布引電気軌道のように短命で姿を消した影の薄い私鉄ではないかと・・・。
⑧は西村さんのおっしゃる通り、布引かもしれません。よく似ています。
宮崎繁幹様
確かによく似ていますね。それにしてもすぐに写真が出てくるのがすごいですね。絵葉書のようですね。布引電気鉄道は大正15年12月1日に小諸・島川原間7.42Kmで開業し、昭和9年7月10日に廃止された9年間営業した短命の鉄道でした。布引観音(布引釋尊寺)への参拝客を当て込んだ敷設だったようですが、御利益はなかったようです。平成13年4月8日に廃線跡を辿りましたが、短命で終わったのもやむなしというロケーションでした。終点から布引観音への登山道入り口の様子を添付しておきます。⑧は小諸駅でしょうか。デッキに立っている乗務員も絵葉書のホームに立っている駅員も同じようなロングコート姿です。
まほろばの鉄趣味住人 様
⑨はやはり遠鉄奥山線に間違いありません。手前がサハ1103、奥がサハ1108ですね。サハ1103は昭和23年に旧佐世保鉄道、国鉄松浦線のケコハ470形480を譲り受けたものです。サハ1108は浜松軽便鉄道開業時のハ1で大正3年大日本軌道深川鉄工部(のちの雨宮製作所)製。撮影場所ですが、遠州浜松駅だと思われます。手前の線路がサブロクの遠州鉄道二俣線、1103の向こう側に架線がカーブして行っているのが奥山線、その間にある奥山線の留置線に2両が休んでいるところだと思われます。奥山線廃止が昭和39年10月末ですから、それ以前の撮影ということになります。
さて、残るは①②③ですが、難題です。米手様、そろそろ次の課題をお出し下さい。そうしないと、ストレスがたまる一方ですので。
⑧は布引電気鉄道ですか。西村さんの直観力はすごいですね。宮崎様がただちにパッと写真が出てくるのはこれまたすごいものです。ところで私にとっては布引は思い出深い所なのです。高校2年の時の部活の夏期旅行で布引観音を訪れています。この時は電車が走っているとは知りませんでした。小諸からバスで行ったのですが、途中千曲川を眺めていると川の中に柱が立っているのを見いかけたのを覚えています。あとになってそれは布引電気鉄道の橋脚だったとは・・・そして着いてから布引観音の観音堂に登ったことのしんどかったこと。下りてきてバス停の所にあった店でジュースなどをみんなで飲んだのですが、店の人が「トマトがぎょうさんあって食べきれへんから食べてくれへんか」(大阪弁に翻訳)と言われたのでいただきました。ヘタのところまで真っ赤でほんまに美味しかった。それでよく覚えているのです。この時に店の周辺をウロウロしているとホームのようなものがあったように覚えています。そして、ストリートビューで見てみると、短くなっていましたが橋脚があるようです。写真は高校生の時に撮った観音堂とそこから眺めた千曲川です。ポジフィルムで保管が悪かったので例によって変色とカビカビです。何とか修復して見れるようにしました。
⑦は阪神尼崎車庫の入れ替え用電動貨車ですね。
どこかで見たと思っていたらありました。
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/sp/archives/2007/11/post_650.html
会員諸氏のご奮闘に感謝致します。
以下の通りまとめました。
①~③ 不明。継続審議
④伊予鉄モニ30 古町車庫
⑤秋保電鉄 サハ402 長町
⑥富岩鉄道→富山地鉄→富山市内線 ボ2
⑦阪神電鉄尼崎車庫入換用機械 1950年製 国道線散水車改造
⑧布引電気軌道(小諸ー島川原)
⑨遠州鉄道奥山線 サハ1103+サハ1108 遠州浜松
これでよろしいでしょうか?ご異議があればお申し出ください。なければこれで決定致します。
なお、西村さんにはご迷惑をおかけしますが、長老様からの出題は今回はここまでです。写真箱には正体不明が山積みですが、現下の状態ではお伺いできません。今しばらくストレスを持ちこたえてください。
米手様
続編を楽しみに ①~③の謎解きで過ごすことに致します。
今回は難問ばかりで、手も足も出ませんでした。
凄腕の達人揃いのデジ青に「不可能」の文字はないのでしょうか。
⑨は遠州鉄道奥山線の遠鉄浜松駅と答えが出ておりますが、まほろばの鉄趣味住人様のコメントを拝見し、「RMライブラリー」を開きました。1964年に撮影されたサハ1103が載っております。ところが、ベンチレーターの位置が違い、側面のサボもデザインが異なります。しかし、車体の特徴で他に異なる点はなく、110と3の間に隙間があるところまで瓜二つです。これは年代の違いであろうと考え、色々と手を尽くしました。答えは『デジ青』の過去投稿から見つかり、須磨の長老様が「ダブルルーフの上屋根にガーランドベンチレーターを3個載せていた」と書いておられました。1958年8月に訪問されていたようです。乙訓の長老様の投稿も見つかりました。遠鉄浜松駅で発車を待つモハ1004+サハ+キハ1803の画像が載っております。遠くには客車が小さく写っていますが、番号までは分かりません。構内配線図に照らし合わせてみますと、西村様のおっしゃる通りの場所になりました。訪問されたのは1959年9月でした。
①②③は昭和23年頃の撮影で、N崎氏から頂かれたそうです。ヒントは東北地方で、現存する路線です。
小生は⑥の富山地方鉄道ボ2が撮影された場所の特定に苦しんでおりまして、「旅館祥園」と「ケロリン」のどちらを優先するべきか、悩んでおります。「東田地方」が浮かび上がりましたが、安全地帯の位置を航空写真からは確認できず、決め手に欠いております。
ありがとうございます。
追加補正しておきます。
また、詳細が分かったものがあれば書き込んでください。お待ちしています。
①~③は 2016年7月28日に乙訓の老人本人がデジ青に投稿しています。 福島電気鉄道飯坂西線です。
①の「104」については、
「昭和23年4月、東京手塚製作所(実態不明)製造による104、105号を導入している。半鋼製車両であり、モーターを始め台車はもちろん、手持ち機器を洗いざらいかき集めた産物だと車庫では言っていた。」
と記述。後に104は1204、105は1205に改番されています。
②の「1」は、
「東線の1号型3両を日本車両(東京支店)で車体新造、機器類及び台車も転用したものであった。車体は時節柄木造であったが新車体は巾2,720粍、長10,8m、高3.6mの地方鉄道定規に沿ったもので、ドア配置1D8D1のボギー車でタネ車の車両番号1~3号を引き継いだ。鉄道線番号を100番台に変更したのは昭和24年3月で、その時に101~103と改番された。」
やや大きな車体ですが、ホームに隠れた下回りは単車なのですね。
③の「22」は、
「これに続いたのが21型(21、22号)で、1号型と同期(昭17年8月)に車体新造されたが、旧車が2軸車であったため4輪車であった。昭和22年にボギー車に改造されたが番号は継続で、その後106、107号に改番された。」
野崎氏が撮影したのが昭和23年ですから前年にボギー化されていた姿が写っているわけです。
⑧に関しては、西村様、宮崎様により布引電鉄とご推察頂いていますが、
これも老人本人が 2011年8月5日にデジ青に投稿しています。
「松電島々線→浅間線→布引電鉄1~3号となった木造単車の布引時代の写真」を再掲します。
われわれ後輩どもが大先輩の投稿記事を見てなかったか忘れていたと言うことですな、ケシカラン!
よく言って聞かせますから、どうかご内密にお願い致します。
布引電気鉄道のデハ1ですが、信濃毎日新聞社刊「信州の鉄道物語」に載っていたようです。長老様は過去の投稿で「1988年河原町六角に移転した駸々堂の地方刊行物コーナーで見つけ、即座に買った」と書いておられます。
さて、⑥の富山地方鉄道ボ2ですが、撮影場所は意外なところでした。路面に写る影の様子から、南を向いて撮影されたのではないかと考え、それらしき場所を空撮写真で探しました。昭和48年に廃止された「旅籠町」電停、現在の平和通りとすずかけ通りが交わる交差点です。「ケロリン」の内外薬品は三番町3-10に有り、直線距離で1kmほどありますが、昭和30年代の富山に高い建物は少なく、見えたのではないかと思います。ボ2が富山地方鉄道に譲渡されたのは昭和25年12月で、当初は立山線の付随車代用として使われ、高岡軌道線へ移動します。富山へ戻ってからは、笹津線の荷物電車として使われたようです。市内線への乗り入れは昭和25年10月1日とありますが、ひと月遅れの11月1日より南富山から西町までの区間で始められ、後に富山駅まで延長されました。旅籠町-越前町の複線化は昭和27年12月20日、西町までの複線化は昭和29年1月14日とのことで、写真の撮影日は昭和27年12月以降となります。ところが昭和30年代初め頃、デニ6002を名乗ります。須磨の長老様が南富山で撮影された写真があって、日付は昭和32年5月3日です。しかし、再びボ2に戻されますが、それがいつだったのかが分かりません。乙訓の長老様が昭和43年6月に笹津線大久保駅で撮影されておりますが、既に改造されて優雅な窓上の飾りは失われています。昭和30年前後に旅籠町の北側から東を向いて撮影された、これが小生の導き出した答えですが、本当のところはどうなのでしょう。
「昭和37年頃の車体改装で車体が鋼板張りになるとともに、側面の飾り窓も撤去された」とRMライブラリーに載っておりますので、デニ6002からボ2に復帰後とも考えられます。いずれにしても、昭和30年代でしょうね。
「左の電柱にヒントがある」は、『旅館』から『旅籠』を連想するように仕掛けられたのかもしれません。
紫の1863さん
いつもながらの名推理、ありがとうございます。
都合が付き次第長老様に尋ねてみますが、「ヒントを仕掛ける」などというテクニックは、現在の長老様は持ち合わせておられないでしょう。