温泉直行便は高速線

国鉄福島駅から飯坂温泉に直行する飯坂西線は、福島市を取り巻く農村地帯を結ぶ飯坂東線とは別の性格を有し、独立したものであった。そこで西線を独立させ高規格路線に仕立て直したのであった。長岡車庫では西線の車両とは言わず高速線の車両と言っていた。先日、瀬古龍雄氏の調査記述をピク誌477号で発見、それを参考に話を進めることにしよう。写真3枚は第2次世界大戦前後、福島に疎開された野崎さんが昭和23年頃に撮影されたもので、映りは悪いが貴重なものである。

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高速線の車両は東線の1号型3両を日本車両(東京支店)で車体新造、機器類及び台車も転用したものであった。車体は時節柄木造であったが新車体は巾2,720粍、長10,8m、高3.6mの地方鉄道定規に沿ったもので、ドア配置1D8D1のボギー車でタネ車の車両番号1~3号を引き継いだ。鉄道線番号を100番台に変更したのは昭和24年3月で、その時に101~103と改番された。

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これに続いたのが21型(21、22号)で、1号型と同期(昭17年8月)に車体新造されたが、旧車が2軸車であったため4輪車であった。昭和22年にボギー車に改造されたが番号は継続で、その後106、107号に改番された。昭和25~28年のボギー車導入(108~111号)で廃車になった。これで高速線から巾せまい(1.939粍)電車とはお別れとなった。

5昭和23年4月、東京手塚製作所(実態不明)製造による104、105号を導入している。半鋼製車両であり、モーターを始め台車はもちろん、手持ち機器を洗いざらいかき集めた産物だと車庫では言っていた。主要要目を列記すると、定員80(座席40人)、床面積24.96㎡、車体寸法:長12,840、巾2,720、高4,050粍。自重18頓。出力:85(750V)Kw×4、代価7,200,000円(1両か2両分かは不明)であった。

678車両は終戦直後の混乱時代を潜り抜けた後は順調に半鋼製ボギー車を増備している。それらは108(昭和25年6月)、109、110(昭和27年10月)、111号(昭和28年3月の4両で、車体長15,800粍の中型車であった。109、110号の2両は宇都宮車両の製造、他は従前通り日本車両による新造車であった。この4両は昭和32年12月9日付きで1208~1211号に改番された。更に昭和30年11月には日本車両で旧1型3両を鋼体化名義で中型ボギー車として新造、車号は1201~1203号とした。台車を始め主要機器は中古品のたらい回しであり、客室窓寸法は在来車より大きい。

高速線に相応しい車両7両が揃ったところで車庫訪問となったが、書面上は廃車となった筈の1204号車が残っていたが理由は不明。一連の更新工事を促進したのは昭和26年3月31日の架空線750Vへの昇圧で、中古品ながら電装機器類の取替えによりパワーアップが実現、高速線の近代化に繋がって行った。老人は最初の訪問1959年9月14日以後は、1965年7月社用で飯坂温泉1泊してから1994年8月まで福島電鉄訪問の機会はなかった。29年ぶりのその日、8月13日に福島駅に降り立ちホームでぐるりと見渡したが、何一つとして思い出すものはなかった。

91011目に入ったものはステンレス製の旧東急電鉄の冷房車、JR線ホームに乗り入れて来た阿武隈急行電鉄の車両で、それ以外は全てJRのものであった。この夜は安宿を翌日訪問の栗原電鉄に合わせ一の関で予約しておいた。そこへの道中、石越駅でJR普通列車待ちの電車、元福島交通モハ5318(1991年譲渡後はM318号と改番)が目に入り、やっと東北に来たのかと思った次第であった。

 

 

 

 

 

温泉直行便は高速線」への1件のフィードバック

  1. コメントもご無沙汰で申し訳ありません。私も東北地方の私鉄へは、そこそこ行きましたが、福島交通だけは、訪問したことも無く、福島駅に降りたことすらありませんてした。夜行列車に乗って、東北へ行っていた時代ですから、福島は深夜、寝静まった時間帯で、なかなか下車が果たせませんでした。
    Nさんの戦後直後の貴重な写真も拝見しました。先般、名古屋へ行く機会もあったのですが、Nさんの近況は、ついぞ聞かずじまいでした。どうされているのでしょうか。
    最後に載せられた栗原電鉄のM318は、若柳の車庫でボロボロになった姿を見ています。栗原はその後に非電化されましたので、転属後の稼働期間はごく短かったはずです。貴重な記録ですね。

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