西のC59・C62 全記録   (4)

初めて駅間を歩いて撮影 昭和43(1968)年3月

今までの駅・機関区撮りから脱して、呉線を駅間で撮りたいと思うようになりました。呉線の車窓からは海岸沿いを走る光景は見ているし、鉄道雑誌でも呉線は注目されるようになって「撮影地ガイド」も載るようになってきました。高校3年生の終わりの春休み、北九州への撮影旅行の前後に、呉線の撮影となりました。関西からアプローチしやすい三原寄りで有名な撮影地は須波~安芸幸崎で、ほとんど瀬戸内海に沿って走る。ちょうど中間地点あたりにアウトカーブがあり、まるで瀬戸内海へ飛び出しそうな海岸ギリギリの区間がある。何度も広島からの乗ったことのある徳山発糸崎行き624レは、待望のC59 162が牽いていた。C59廃車説も吹き飛ばす、C62に伍しての活躍が見られた。

この時は、呉線へ行くまで宮津線などを寄って行った。高校生最後の学割証を使って、京都発、山陰・舞鶴・宮津・山陰・播但・山陽・鹿児島・筑豊経由の飯塚行き切符を使って、姫路から夜行鈍行に乗って未明の糸崎に到着、機関区で写したあと、呉線に乗り換えて須波に下車した。記録のためにDCも撮っておく。上は糸崎発岩国行き633D、先が見えないが、通勤列車となるため20系の9連と長大編成。左は須波を発車した徳山行き631D。

 

 

須波から安芸幸崎に向けて歩き出す。すぐの築堤上で、広島発糸崎行き622レを撮る。この旅行で初めて親戚から三脚を借りて、写したが、煙の予想ができず、このように無駄な構図ばかりになってしまい、1、2回使っただけで止めてしまった。キハ25 5[中ヒロ]を先頭にした岩国発糸崎行き634D、呉線のDCは、おもに広島運転所のキハ20・25が使われているが、岩国。徳山から来る列車には、岩国区のキハ17も入線している。右は、その折り返しの635D。幌枠の無い、端正な姿を見せる。

呉線にはDC急行も走っていた。キハ55 238先頭の岩国発岡山行き「にしき」、やはり広島第二の都市・呉があるため、中距離の急行は、山陽本線経由ではなく、DCを使って呉線経由で設定されている。こちらは、キハ28 437先頭の岡山発広島行き「吉備」、ヘッドマークは折り畳み式の共通スタイル。貨物列車も紹介、糸崎のD51が一手に引き受けていた。ナメクジなどの異端機はなく、すべて標準型だった。上はD51 761の牽く下り貨物、左はD51 760の牽く下り貨物。いずれもきれいに整備されていた。

 

 

 

 

 

キラキラ輝く瀬戸内海の向こうから、C62の牽く列車がやって来た。爆煙のC62 16[糸]の牽く広島発糸崎行き626レが緩い勾配を上がって行く。

 

 

 

 

 

現在の同地点をGoogleで探してみた。海岸を埋め立てて新しい県道ができている。かつて、呉線の山側にあった未舗装の県道は、左のように廃道となってしまった。 

須波~安芸幸崎の中間付近に山手へ行く小道があり、撮影地ガイドにも、海を入れて撮る、この区間のハイライトと書かれていて、3月もまだ18日と言うのに、もう桜が咲いている。目玉の東京行き急行「安芸」は、ここで撮ることに決めた。桜の枝の間に列車を挟み込もうと魂胆し、付近を何度もウロウロして場所を決めた。時刻は16時過ぎ、C59の細身のボイラーが夕陽で輝き、それに続く青い客車は、まさに急客機に相応しい姿だった。

 

 

 西のC59・C62 全記録   (4)」への13件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    須波-安芸幸崎は歩き通したことがあります。1日は雨の中でした。今回は気動車の記録を含めた走行写真でいいですね。貧乏性ですから海だけ8割くらい入れるといった思い切ったの写真は皆無でそのあたりが凡人だと思っています。添付写真はは1968年4月1日の呉駅の624列車です。スーパーカートリオと言われた駿足ランナーの写真集に掲載されたものです。

    • 準特急様
      呉駅の写真、ありがとうございます。跨線橋が二本もあり、大きな駅の雰囲気がありますね。かつぎ屋のオバちゃんも懐かしいです。須波~風早は歩き通されましたか。私は、いつも須波から中間地点まで歩いて、また須波へ戻りました。先にクローバー会旅行の際に呉線経由で車窓を見ましたが、一見、きれいな公園ができたりしていますが、線路端は草木が成長して、全く撮れない状況でした。

      • 総本家青信号特派員様
        当時から健脚ではないので歩き通したのは安芸幸崎-須波-三原間だけです。また、夜行連続2泊も寝台利用を除いてありません。それにしても逗子の高田さんの高千穂、屋久島連続利用はとても真似できません。

  2. 総本家青信号特派員様
    4回目と5回目は、3回目から3か月後の1967年12月でした。年末、四国旅行をしましたが、呉線を訪れるために往路、復路とも仁方-堀江間の仁堀航路を利用して四国への入出をしました。
    大阪から「ななうら」を利用し仁方に12月27日に下車しました。利用した四国均一周遊券の順路は仁方までですのでこの駅で一旦下車し、別途片道乗車券を購入し後続の普通列車で矢野へ向かいました。冬至を過ぎたこの時期は広近辺ではまだ夜が空けていなく朝の連続する下り列車の撮影が不可能なため、矢野から坂まで歩きながら朝靄のなか広島に向かう通勤列車を撮影しました。
    恒例の624列車で9:33着の仁方まで戻り、仁方から9:45発の仁堀航路3便で11:50に堀江に着き、車中泊連続4泊の四国旅行に入りました。
    第1回の夏に始まり、第2回は春、第3回は秋、今回の冬と四季の呉線を訪れることができました。

    • 快速つくばね様
      写真、ありがとうございます。白く見えているのは雪なんですね。私以上に頻繁に呉線に行っておられ、しかも、仁堀航路を利用して四国へ行かれたり、四季それぞれに行かれたりと、変化のある撮影行です。私など、相も変わらずの機関区と駅近の撮影地で終始しました。まだ続きますが、辛抱してご覧ください。

  3. 総本家青信号特派員様
    3度呉線を訪れていますが、2度目の1969.2.11大阪から夜行日帰り(音戸2号、つくし2号)で須波~安芸幸崎の中間あたりの海岸ギリギリの場所に行っています。C62急行「安芸」37レが煙りはありませんが海へ飛び出しそうに現れました。ベッドマークをつけていた時代です。今は海岸側に道路ができているんですね。鉄道ジャーナル今年10月号「凋落のメインライン(番外編)」に呉線の訪問記事がありますが、須波の駅舎は撤去済のようです。呉駅が木造平屋建、普通列車は長編成が魅力でした。

    • 高田幸男様 ご無沙汰致しております。須波駅の駅舎は解体されてしまいました。平成29年2月19日の駅舎の様子です。

    • 西村雅幸様
      呉線は、単線なのに総じて立派な駅舎が多かったように思っていますが、当時は「フィルムがもったいない」「撮っても焼かへんやろ」ということで、殆ど駅舎は撮っていません。今振り返ると、駅舎のみならず、駅構内、駅前風景などのほうが貴重なように思います。
      駅舎の写真、ありがとうございました。しかし、取り壊すと寒々とした光景ですね。

  4. 通りすがりの部外者ですが、いつも楽しくまた懐かしく拝見させていただいております。私も67年頃から呉線は撮影に行ってました。当時の須波駅付近は今ほど民家も多くなかったと記憶していますが、駅員はいましたね。JR化後はやたら無人化が進みましたね。まさか糸崎駅が無人化されるとは思ってもみなかったです。写真は今年の秋撮影ポイントに行く途中、見つけた須波駅の俯瞰場所です。撮影は2023.10.17です。

    • 田中敏一さま
      通りすがりの部外者どころではない、あの田中敏一さんですか。いゃいゃ、いつもお世話になっています。よく出撃されているとは聞いていましたが、撮影は、つい最近ではないですか。こんな俯瞰場所があるのですか、驚きです。須波も家が建ち並んでいることも初めて知りました。今後とも、覗いていただき、また感想やツッコミ、お願いいたします。ありがとうございます。

      • おじゃましてます。はい、あの田中です。ここは須波駅の下をくぐって筆影山に行く道の途中です。道は狭いですが、通行量は少ないので車は止めて置けます。写真はトリミングしているので家はまだ少ないように見えますが、ここから見ると山の裾迄民家があります。

  5. 田中様
    お返事、ありがとうございます。筆影山、と言うのは聞いたことがあります。須波駅の名所案内にも記されているのではないでしょうか。以前、当欄で西村雅幸さんからもレポートがありました。山頂から、三菱重工の和田沖工場が眼下に見えて、車両の各種試験の様子や、正体不明の車両がよく見えるそうですね。沼田川鉄橋もよく見えると記されていました。

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