【42636】あの頃の西山天王山駅付近

12月21日開業の阪急京都線西山天王山駅の初日の様子はぶんしゅうさんより[42503]「祝西山天王山駅開業」として詳細なレポートがあった。阪急電車の車両前面には開業のヘッドマークをつけた車両が神宝線でも見られ、高速道路との乗り継ぎ等新しいコンセプトを謳った新駅への意気込みが感じられた。

西山天王山から大山崎に向かうあたりは川向うの京阪電車淀~八幡市と共に昔から撮影名所であった。また、京都方面から乗車するとこのあたりから車窓に国鉄(現JR)が併走して近づいてくるのでワクワクしたものだ。この気持ちは今も変わっていない。

西山という地名からは乙訓のたけのこの産地が思い出される。また、天王山は摂津・山城の国境で天正10年の本能寺の変で備中高松から秀吉が全速力で戻り、信長を討った光秀と戦った場所として有名である。一度この山に登ってみたいと思いながら未だその機会がない。

さて、あの頃というのは45年くらい前のことで民家も今ほど多くなく、全体に撮影し易いいい場所であった。車両も新京阪時代からのデイ100が健在で6連(最終的には7連まであったと聞く)で急行運用にも入っており、元特急車の710も全車ロングシート化されたが急行や休日の「歌劇」号などにも見られた。これらの古豪に対し、主力は2300、2800、大阪市堺筋線乗り入れ用3300等で新旧の車両がこのあたりを疾走する姿は見ていて楽しかった。

 

1968.10.6 長岡天神~現西山天王山 125を先頭とする大阪梅田行き急行

この時代、P-6の特徴であった正面の頑丈な幌枠は取り外されており、顔としては非常に物足りなさを感じていたが、豪快な走りっぷりは健在であった。 乗務員は詰め襟の学生服のようなスタイルで車掌アナウンスも「です調」ではなく「ございます調」であった。▼

68.10.6長岡天神125

1968.10.6 長岡天神~現西山天王山 大阪梅田行き特急2817

上の125と同じ場所で標準レンズで撮影。ここは長岡天神駅から至近にあり、手軽な撮影地としてよく通ったものだ。今でもバックの竹林は健在であるが道路からの撮影は防護網が張られるなどしてほぼ不可能になってしまった。▼

s-68.10.6長岡天神2817

 

1968.4.25 大山崎~現西山天王山 京都河原町行き急行後部2325

西山天王山から大山崎よりにしばらく進んだ場所で、両サイドに家が少なく比較的自由な角度から撮影ができた。写真の奥の方が西山天王山駅のあたりである。 ▼

s-68.4.25長岡天神2325

 

1968.4.25 現西山天王山~大山崎 大阪梅田行き急行2324

上記2325とほぼ同じ位置の踏切から撮った急行で急行行先板が最初の125と同じ白地に赤であるので昼間の急行であり、桂から高槻市まではノンストップであった。これに対してラッシュ時の急行は黄色に赤で表示され長岡天神にも停車していた。 ▼

s-68.4.25長岡天神2324

 

2013.11.5 現西山天王山~大山崎 大阪梅田行き特急9300

この界隈にはDRFCーOBの実力者が何名か住んでおられるが先日そのうちのお二方とこの近くと思われる場所で撮影をしたので参考に掲載する。 ▼

s-13.10.11長岡天神9300

 

1968.12.4 現西山天王山~大山崎 各駅停車天神橋行き1605

P-6のモーターを使った1300に近い車体新造の1600は同じような考え方で製造した神宝線の流用イコライザー台車の1200と比べ新製のゲルリッツやアルストーム台車なので格上に見えた。上記踏切よりもう少し大山崎よりでの撮影である。 ▼

s-68.12.5長岡天神1604

 

1968.4.25 現西山天王山~大山崎 128先頭各駅停車天神橋行きを後方から撮る。2両目は戦後の阪急製造(ナニワ工機)1554。

バックの山が天王山でこの撮影地点を過ぎると国鉄(現JR)東海道本線と併走し、やがて線路が入れ替わって高槻付近までデッドヒートする姿が見られるのは皆様ご存知の通り。 ▼

 

s-68.4.25長岡天神128先頭天神橋行き

 

表題の西山天王山駅付近そのものの場所での撮影写真はほとんどなく多分大山崎方向に撮影に向かう途中の通過地点であり、どういう場所であったかは記憶にない。この地で撮影した思い出のおありの諸先輩や長く地元にお住まいの方々に対して僭越であるが、私の思い出の一部を発表させていただいた。何分半世紀近く前のことであり、特に場所の思い違いがあるかも知れないのでご指摘を頂ければ幸いである。

6 thoughts on “あの頃の西山天王山駅付近

  1. 懐かしい姿を見せて頂き感激しております。老人が親の家から独立したのは1967年5月5日、現在地で2階建てウサギ小屋を求め、連れ合いが娘を抱いて、2トントラックに積めるだけの家具を載せて引越しました。その頃の京都線の姿で、いろいろ思い出すことがあります。向日町と父親は1919年から縁があり、終戦直後の小学校2年の時に縁類先に連れられて来て以来、新京阪電車乗りたさに縁類に来るようになりました。春先には藪へ筍掘りに、夏には小畑川河原や堤で蓬、笛豆、食用となる草の葉等を母親と採集しました。別の本来の役は省略。
    引越しを前に縁類に挨拶行ったのは言うまでもありません。5月7日から新京阪通勤が始まったのですが、2800系6連です。共働きでしたから親父の役目として昼間里親先に娘を届けました。届け先は糺の森電停近くでしたが、市バス62系統が四条烏丸から出ており、それに合わせるバスの発車が8:05、これなら長天始発に乗れると下調べしていました。それがドンぴしゃりで夜間留置の特急車の回送車となり大当たりとなったのです。この役目は5月31日に終わりましたが、その後も長天始発の2800系は続き評判になりました。晩年は正雀から回送で長天へ、そして客扱いとなりました。6300系となっても暫く続きましたが、京都線名物でした。

  2. 「お昼ですよ―ぉー」の声に一時PC前を離れた。前稿の校正なしで誤りが数箇所ある。その中で2800系で通勤したのは9年ぐらいで、その後は6300系で21世紀になる前までロマンスカー通勤が続いた、と訂正する。デイの7連は勇壮な姿であった。この7連はブレーキはA弁に、電磁給排弁を付加したものが集められ、新造以来のU弁との差が顕著であり、鉄でないオッサンでも停車時の優劣が分かるほどであった。その頃の普通4,5連はU弁装備車が主で、上り(今は下り)で桂川橋梁を渡った後の下り勾配のブレーキ、ハンドル操作のへまをやる運転手が続出した。階段操作でへまをやると滑ったり、転んだり。このあたり元運転手であったマルーン君がいずれ披露してくれるであろうと思う。素人のかぶり付き解説は遠慮しておく。
    デイ125号先頭は恐らくU弁仕様だと思われる6連のご一党様だと思う。125、2817号の列車の背後の樹木は今は無い。手前の方も長天方は少し残っているが、住宅地が迫っている。
    モノクロ画面に移り、新駅の位置を特定するのは簡単である。長岡京市と大山崎町の境界となっている小泉川の上に新駅は立地している。新駅を出て府道を右手にとり暫くすると小泉橋となるが、ここが天王山の合戦の場であったとされている。デイ4連が走る位置は今も残る農業用水路で特定できる。準特急さんのご指定通りで、山並みに変化は無いが電車の背後には円明寺団地のテラスハウス群がある。この工事には床材納入に携わった。路線トラックでは納入できず、チャーター便に長靴持参で納入した。老人は当時珍しい木目模様のPタイルを施主である京都府住宅供給公社への売り込みに成功したのだ。
    その前の1600系が渡る踏切、新駅京都方のものだ。1600系と言えば軽量車体でダッシュよろしくよく走った。新幹線線路の道床固めに国道沿いに仮設線路が上がった直後、或る日乗った急行は1600系4連、東海道線を潜ったところからパラノッチ、あっと言う間に100KM/Hを超え、なんと134KM/H、水無瀬を超えた信号は「黄」。ブレーキ掛けてやっと上牧外れの信号で50KM/Hとなり、先行の普通の後追いで高槻到着の一幕に出くわしたことがあった。この頃の新京阪線は、道床は玉砂利、レールは50KG/Mであっても10M長の区間がそこかしこに残っおりよく揺れました。それが100KM出しても揺れないのにびっくりしたのであった。
    思い出はこれくらいにしておこう。乙訓の住人となって46年半が過ぎました。

  3. 乙訓の老人様
    お昼を挟んで2度のコメントに恐縮しております。地元に長く住んでおられる方ならではの思い出やご指摘有難うございます。お話の中に出てきます2800系長天始発とは特急用クロスシート車による普通列車の京都河原町行きと思いますが、一応キャッチしております。行先板が確か紺色で白文字で長岡天神~河原町(あるいは京都か京都河原町であったかもしれません)と入っていたように記憶しております。今津線の西宮北口~宝塚間の区間電車が同じ色合いの行先板でした。10メートルレールは高槻市駅あたりを通過する時タタンタタンタタンという連続した音の記憶が残っております。当時の京阪ファンからは振動で痔が悪化するなどの冗談も出ておりました。余談ですが、最初の125急行の背後にある竹林のさらに背後の位置(長岡天神駅に近い場所)に自動車教習所があり、そこで運転免許証を取りました。仮免取得後京都市電の走る西大路通りを走るのがこわかったことや、西山の方向を走った記憶があります。

  4. 準特急様 乙訓のご長老様

     学生時代の懐かしい写真の数々やご説明、思わず室町ボックスにいるような感じになりました。あの頃は諸先輩や皆さんが京阪や阪急で侃々諤々懐かしいですね。

     P-6の運転士の制服、あの頃は京阪も阪神も詰め襟でしたね。丁度日本万博を機会に
    スーツに替わっていきました。私が入社した昭和45年から阪急はグレーの三つボタン
    に赤のネクタイ(結び目にクリップが付いた結ばなくても良い引っかけ式でした、最初は)に変わりました。今の制服はそれから3代目です。
     車掌の告知用語も私たちは「、ございます、願います、~迄止まりません」、でしたが、今
    は仰るとおり合理的?になり、味気なくなっています。

     あの頃京都線の運転士の試験車両はP-6の4連でした。それは止めにくい難しい車両でした。運転士の引き継ぎの時に「引っ張りよるで」とか「小突きよるで」とかがほとんどで
    「異常なし」の引き継ぎは無頓着か、意地悪かでしたね!?
     前にも書きましたが、中継弁付きのA弁の車両は抜けが良く止めやすかったです。
     止めにくかったのは1300でした。電制がよく効くのですが、ウイーンウイーンとこちらの思うとおりになりません。思わずレバーを一度切って、空制で止めたものです。

     つまらない思い出話で失礼しました。

     今日は大晦日、皆様よいお年をお迎えください。

  5. 有難うございます。ご経験された方のお話しは大変興味深いものがあり、車両に対する見方が変わりますね。1300は京都線最初の高性能車両で最初は特急に使われておりましたが、運転し難いとは思いませんでした。私は車両知識はほとんどありませんが、似たような話を井の頭線初代1000で聞いております。それまでの吊り掛け車木製床の1900と同じ湘南顔でしたが、1000の方がスタイルはずっと垢抜けしておりました。しかし、運転がし難い、止め難いとよく聞きました。
    マルーンさんはP-6の運転のし難さと比べ、710はよかったと仰られましたが、やはりこの電車はスタイル・性能共によかったのですね。西山付近を疾走するいい写真がなかったので今回は割愛させていただきましたが、機会がありましたら別の形で発表します。乗務員の学生服スタイルは阪急タクシーも同じでした。バスも同じであったかもしれません。

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