初めての小屋浦へ 昭和43(1968)年3月▲朝、広島へ向かう呉線の列車は、客車12両でも満員で、何本も通り過ぎる。C62本来の目的ではないものの、あらたな働き場所を見つけたようだった。(以下、小屋浦~坂 昭和43年3月)
では呉線のC59・C62に戻ります。前項(5)では、高校3年生の春休みの昭和43年3月に、北九州撮影旅行の途上、呉線に寄って、初めて走行中を撮ったことを記しましたが、その帰りにも、呉線に立ち寄っています。九州から夜行鈍行に乗って、早朝の広島に到着、呉線に乗り換えて、小屋浦へ向かいました。呉線を有名にしたひとつは、朝のラッシュ時に、広~呉~広島で運転されていた通勤列車を牽くC59・C62でした。これに広島行きの夜行列車も加わって、小屋浦で見ると、6~9時台に上下8本の蒸機列車が通りました。
▲九州からは、門司始発の大阪行き普通夜行列車があり、それに乗ると、広島5:20着、すぐ呉線の2番列車に乗って、小屋浦に着くことができた。京都発広島行き急行「ななうら」、以前は準急だったが、急行に昇格、「ロ」「ハネ」を連結している。
▲小屋浦を有名にしたのは、当時駅長をされていた庄田秀氏が鉄道ファンで、撮影地ガイドでも、海岸沿いを走る小屋浦付近の景観と、撮影効率の良さを説いておられた。D51 395[広]が牽く921レ▲坂寄りにある小屋トンネルから、広島行き925レを撮影。線路端に立ってみると、民家や工場が乱立して、優れた撮影地とは言い難い。当時、われわれが呼んでいた“クサイ”撮影地の代表格だったが、50年後のいま、改めて見直すと、昭和の高度成長時代を象徴する、懐かしい風景だったのかと思う。▲トンネルから飛び出すC62 46を、白煙のなかに機体を入れてみた。先月、池袋で開催された写真展に、同じ構図で撮られたNさんの写真があり、先日、京都でお会いした際、“撮るもんは一緒ですなぁ”と言う話で盛り上がった。▲そして、今日初めてのC59のお通り、広発西岩国行き621レを牽くC59 164[糸]▲こちらは上り列車、徳山発糸崎行き624レ、C6216[糸]の牽引。▲貨物も通る。D51 755[糸]の牽く676レ、左の国道にはクルマも見当たらない。 ▲ふたたびトンネルの飛び出しを、D51 1068[糸]の牽く671レで。▲そして12時前になると、下り急行「安芸」25レが通過する。廃車の噂も吹き飛ばす、元気なC59 162[糸]の牽引だった。▲小屋トンネル西口から、糸崎行き626レを。煙室扉の白い跡は、アジビラを剥がした跡のようだ。▲小屋浦駅に戻って、通過する上り「安芸」を撮影して、本日の小屋浦駅付近の撮影は終了した。時刻はまだ14時台で、ほかへの移動もできるが、じゅうぶん満足したのか、長旅で疲労も蓄積していたのか、珍しく広島へ戻って、ユースへ直行したようだった。
総本家青信号特派員様
6回目と7回目は、前回から1年後の同月同日の1968年12月27日と31日でした。この時は山陰旅行の前後に呉線を訪れました。この年の往路は元「ななうら」の「音戸2号」を呉で下車して、吉浦から天応まで歩きました。5回目までとの大きな違いは間にヨンサントオ(43・10)といわれる国鉄の白紙ダイヤ改正が入っていて、多くの列車の愛称名が整理統合されました。
「安芸」は、この年の12月から急行でありながらヘッドマークが付けられ、列車名も正式名と異なり平仮名の「あき」になっていました。当初は下り列車と上り列車の牽引機が異なったためヘッドマークの回送を兼ねて普通列車を牽引する時にはヘッドマークにカバーが掛けられていました。1969年3月以降は広島到着後のマーク付け替え作業を省略するために、下り「安芸」を牽引した機関車がマークを外さず、上り「安芸」を牽引して折り返すよう運用が変更されました。写真は天応駅を出発するC62 15ですが、ヘッドマークが付けられていますが黒いカバーを掛けられています。
山陰均一周遊券を利用しての旅行でしたが、フリー区間までの経路は、大阪から最も遠い山陽本線、美祢線を経由し長門市から入りました。
快速つくばね様
ご返信が遅くなり、失礼しました。本年もよろしくお願いいたします。ヨンサントオ以降の「安芸」を中心とした運用の変化を拝見しました。「安芸」のヘッドマークに黒いカバー掛けられたC62は初めて見ました。一年間だけ見られた貴重なシーンですね。たしか九州のC59が上下で別のブルトレを牽くため、片方のヘッドマークをデフの裏側に引っ掛けて運用に付いたことを思い出しました。
お書きのように均一周遊券は、指定地域へのルートは、いくつかの経路が選択できました。途中下車も自由で、思わぬ余禄があったものです。
総本家青信号特派員様
私も小屋浦駅周辺で1日中撮影したことがあります。小屋浦駅西側のトンネル飛び出しは、『安芸』のヘッドマークに黒いカバーを掛けたC62を私も撮影しています。でも、運用の変更でカバーを掛けたC62は僅か3~4ヵ月しかなかったのですね。夕方まで撮影してましたが、夕方の広発着牽引機関車は上りまたは下りは逆行運転になる事は当時全く知りませんでした。撮影するにはブサイクな姿ではあったけれど、本線仕業におけるC59・C62の逆行運転は珍しい事だったと思います。見たのは926レ・929レ・931レの3本です。ただ、1日小屋浦付近で撮影していたのに駅裏の山に登らなかったのは後になって残念に思います。写真は逆行運転中のC625牽引の929レです。
あと、6枚目の写真の説明文中に広発西岩国行き621レとありますが、糸崎発ではないでしょうか?当時広発着は900番台の列車番号だったと思います。
田中敏一さま
遅れのコメントで申し訳ありません。テンダー機の逆行は、ホント絵になりませんね。小屋浦付近は複線時の用地があったので、線路際は比較的、余裕があって撮影できたものでしたが、国道側から写しても、当時はクルマの量も少なく、このように写せるのですね。俯瞰は、私も崖にへばりついて写しましたが、山に登って超俯瞰撮影も可能だったようです。
621レは、お書きのように糸崎発でしたね。細かいところまで見ていただき、ありがとうございます。糸崎発が5時過ぎの始発でした。