昭和45(1970)年9月 電化工事の完了した呉線へ最後の撮影i②
2週間の九州各地での撮影は、さすがに真夏、今まで行っていた春と較べると、煙はスカスカ、暑いだけで大した成果もなく、「天草」に乗って、深夜の広島到着となりました。
▲九州からの帰途、再び呉線へ。朝は、やはり小屋浦へ足が向く。架線柱が建ち、架線も張られて、条件はさらに悪いが、広島へ向けて次つぎ通る通勤列車の魅力には勝てない。C59 161の牽く927レ(昭和45年9月13日)
▲門司から「天草」に乗って広島に1:52到着、例によって待合室で仮眠して、一番列車で小屋浦へ。次つぎに通る列車を片っ端から撮る。C62 15の牽く「音戸2号」。寝台車、グリーン車を連ねた急行編成もこれが最後。
▲左から、D51 395の牽く921レ、C62 16の牽く925レ、D51 458の牽く923レと、続々広島へ向けて通る通勤列車、いずれも客車は、11輌または12輌編成だ。
▲621レは“電蒸運転”だった。EF58 18+C62 37 撮影者が増えて来た。
▲小屋浦駅に戻って、駅構内を行く、これまた“電蒸運転”の624レをとらえる。EF58 84+C62 17 左は通過するC62の運転室付近、完全に電機に牽かれた状態で、C62はブラ下っているだけ。機関士の手はしっかりレバーに掛かるが、余裕の表情だ。
▲小屋浦駅の構内に一形式一両の貨車ヤ390が留置されていた。もとを正せば昭和35年製造の貨物気動車キワ90だった。閑散線区の貨物輸送のため2両が試作され九州の妻線などで使われたが、大した成果もなく、キワ901は廃車、キワ902が電化工事の装柱車キヤ90に改造された。ほかの貨車ヤ450と組んで房総電化工事に使われた。のちにキヤ90から貨車扱いのヤ390に変更した。千原駅常備で、電化工事があるたびに、各地に移動していた。
ヤ390のカラー版は、下記に投稿済み
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈9〉 | DRFC-OB デジタル青信号
▲小屋浦の撮影を午前で切り上げて、午後は広島へ戻り、広島機関区へ向かい、じっくり形式写真を撮ることにした。架線の下で、ズラリと蒸機が並ぶ。▲下り「安芸」を牽いて来たC59 162が広島区に戻って来て、架線の無い給炭線に停車、形式写真に近い状態で写せる。
▲ヘッドマークを付けたC59162を正面からとらえる。C62に較べて、ボイラーが細いC59には、ヘッドマークが実にいいバランスで載っていると感じる。
▲キャブ付近、C59、C62のナンバーの書体の違いだけでなく、区名札、製造所札の位置もそれぞれ違う。
総本家青信号特派員さま
九州への行き帰りに呉線の蒸機を狙うのはDRFC会員なら当然あり得ることでしょうね。蒸機だけでなくナンバープレートや区名標まで丹念に押さえておられるのはさすが総本家さまと感服しています。
呉線の一連のご投稿を拝見して、何故小生にははっきりした記憶が無いのだろうと思いめぐらした結果、1970年といえば4月に就職した直後で、その前年・前々年と北海道のSLを追いかけたのも忘れて、会社や仕事に慣れるのに精一杯の頃だったことに気付きました。たぶん、いいなあ羨ましいなあと、横目でみていたのだろうと思います。この呉線のSLに限らずその頃からそろそろ終焉期を迎えていたキハ10系DC、80系湘南電車、EF58等など、その後に加わった家庭と子育てという環境の変化もあり、10年ほどの間に消えていった名車が数多くあり、その殆どを記録できなかったのが残念でした。
呉線のSLには縁がありませんでしたが、こうした写真を見せて戴いていろんなことを思い出すいい機会になりました。引き続きのご発表を楽しみにしております。
総本家青信号特派員様
蒸気機関車を追いかけた呉線の現在の姿を見てみたくなり、2018年6月24日に三原-海田市間を乗車しました。糸崎始発や広島までの直通列車はなく、スタートは三原からの105系の2両編成のワンマン列車でした。三原からは大勢の若い女性客や外国の人が乗車しましたが、大半は大久野島に渡る忠海で下車しました。
車窓からの光景は50年前と殆ど変わらなかったですが、線路種別が甲線並みの乙線規格から線路等級の3級線に格下げされたためか25kの速度制限のある個所もあり、これがC59やC62の大型蒸気の牽引した「安芸」が駆け抜けた呉線かと、50年の時間の経過と鉄道の存在価値についての認識を新たにしました。