わが 鉄道熱中時代 ~8~

最終回、米原~田村の交直接続区間、“熱中時代”のその後を見て行きます。湖西線の開業、2回に渡る交直接続区間の変更に伴い、同区間を行き交った車両も、ずいぶん変わってきました。田村駅を通過する「白鳥」、初めて訪れた時、キハ80系14両編成の「白鳥」は最もまぶしい存在だった。それが、昭和47年10月の日本海縦貫線の全線電化で485系電車に変わり、昭和50年3月の湖西線経由変更で、同区間を通らなくなった。そして平成13年3月には運転を終える。電車化されてから、編成短縮、食堂車なしと、輝きを失ったものの、関西・北海道連絡の使命を持ち続けた昼行特急だった。

もう一方の憧れ481系「雷鳥」は湖西線経由になって通らなくなったが、「しらさぎ」だけは、ずっと同区間を走り続けた。北陸方面から新幹線への乗り継ぎの使命が強くなり、増発を重ねて一時は7往復となった。先頭ボンネットの場合、「雷鳥」のようなスカート切り欠きもなく、原型を保っていたことが以降も同区間へ駆り立てた(坂田付近)。

ボンネットも、7:3で撮るだけでは面白くない。「しらさぎ」狙いは、次第に、夕方のシルエット狙いに移って行った。狙い目は米原17:11発の「しらさぎ11号」で夏場なら、琵琶湖の向こうに陽が落ちて行く時間帯と一致する。田村駅南方の一直線区間で待ち構えるが、夏なので、カーテンが降りていて、完全に抜けることは無かった。

 

同じ「しらさぎ」でも春秋になると、もう薄暗い。こんな時はシルエットを諦めて、流し撮りに変更する。さすがにカーテンはなく、室内もよく見えた。

湖西線開業で、米原発着の特急が減り、新幹線との接続の強化のため、新設されたのが「加越」だった。昭和53年10月改正以降、「加越5号」は表定速度86kmと国鉄特急では最速だった。車両も、485系のほか、489系もあった。さらに米原発着で福井・金沢を速達で結ぶ特急が、昭和63年に新設された。「加越」と区分けして速達ぶりをアピールするため、別愛称の「きらめき」となった。事実、最速最速列車は表定速度96kmと、また特急の最速記録を塗り替えたが、のちに「加越」に吸収されてしまう。大阪発着の電車急行は湖西線経由となったが、米原~金沢の「くずりゅう」だけは新幹線接続の使命も持って、本数も増えて最大6往復となった。「加越」などの特急増発により昭和60年3月改正で廃止となり、北陸本線の昼行電車急行は終わった。

つぎに同区間の普通列車の変遷を。交直接続区間を跨いでいた普通列車を見ると、当時は長距離は客車列車、短距離は20系のDCだった。この区間は、彦根~米原~長浜~木之本と小都市が連なっていて、戦前からDCによるフリークェンシー運転が行われていた。DCは、この時期には40系になった。その後、敦賀に583系を座席車に改造した419系も米原まで足を延ばすようになり、中間車を改造したクハ418(上)、先頭車を改造したクハ419(左)と、ケッタイな電車も見られるようになった。「TOWNとれいん」の愛称が付いた。

 

「TOWNとれいん」も世代交代して、急行電車の廃止で余剰の出た475系が、新北陸色に塗り替えられて、米原まで進出するようになる(新疋田)。

 

 

そして、平成3年の長浜までの直流化により、走り始めたのが「新快速」223系だった。京都・大阪から、田村、長浜が直結され、この地域の発展の起爆剤になったのだった(坂田~田村)。

昭和63年3月、長浜に西武の大型SC「長浜楽市」がオープン、その記念に京都~長浜にC571牽引の「長浜楽市」が一日限定で走った。京都~米原に蒸機が走るのは、昭和31年の電化以来、30年余りぶり、当時、小売業の最先端の西武のこと、各駅では凝った歓迎も行われた。そして、本格的な動態保存機の運転として、米原~木之本に「SL北びわこ」が走り出したのが、平成9年のこと、動態蒸機には、ほとんど関心のない私も、人から誘われて、何度か田村駅に降り立った。牽引機は、C571のあと、C56、D51へと変化したが、12系客車の老朽化により、令和元年に運転を取り止めた。米原~坂田~田村と、約60年前から歩いて来た区間も、静かな沿線に戻っている。

 わが 鉄道熱中時代 ~8~」への13件のフィードバック

  1. 蒸機が交直接続区間で活躍していたころから、SL北びわこ号が走り始めるまでの変遷を楽しませていただきました。湖西線の開業、交直接続区間の変更、北陸新幹線敦賀延伸と、時代の流れに翻弄された区間がよくわかりました。細くても長く続ける意義も理解できたように思います。私などは何度も通う反面、ある日を境にぷっつりと糸が切れたように出かけなくなるものですので。
    多分新聞で見たと思います。米原-木ノ本間にSLが走ると知って、何度も写しに行きました。結構な人出でしたがお目当てのSLが行ってしまうと、さっさと帰り支度を始めるファンがほとんどで、もったいないなあと思ったものです。その時ついでに撮った特急や普通電車も今では見られなくなり、来たものを撮っておくのも大切だと感じております。
    画像は1997年3月に坂田-田村間で写した、8両編成の221系電車です。

    • 紫の1863様
      人はいろいろです。いろんな考え方があって当然です。しかし、文中の「お目当てが終わればサッと帰って行く。勿体ない。」この言葉言ってくれる人は文章上では初めてです。関東では信越線の横川までは今でも時々蒸機が走ることがあります。もう少し前の同線にはEF55のラストランがありましたが、終わるとサッと帰る姿は昔からそうでした。その前後に走る湘南色の115系や107系電車は今は見られないのです。なくなるものを撮るのが趣味な人にはなんぼ言っても無理ですが、つまらんと思っている車両でも撮っといてよかったと思うことが何回かあると思います。人はそれぞれですから私はこの日限りの列車とかイベント系は避けます。罵声の飛びそうな危険な箇所はなるべく行かないようににしています。

      • 準特急さま
        いずれ消えゆく特定の車両を追いかけている小生には耳の痛い話ですね。そうはいっても皆さまの発表を見るにつけ、もっと色々な車両を撮っておくべきだったし、本来はそうあるべきではと今は内心忸怩たる想いを引きずっています。
        仰るようにイベントでの混雑はやはりなるべく避けていますね。有名ポイントに行っても混雑している箇所は避けてちょっと離れた場所で撮るとか。その結果、大糸線のキハ52のお別れ列車や小海線のDD16・旧客列車では準特急さまとニアミスしていました。尤も大糸線は荒天により運転中止になってのニアミスでしたが。多くの人が集まると中々見付け難いということもあり、ニアミスの必然性が高まりますね。

      • 準特急さんの言葉「お目当てのネタ列車が終わればサッと帰ってしまう」は、全く持って同感です。以前、準特急さんとお供して、高崎線や信越線で、イベント列車を撮りました。その時、二人で居残って、普段着の列車を撮っていましたが、いまやC61やEF55より、なくなった107系や115系をしっかり記録しておいて良かったと思います。準特急さんのお導きです。

        • 総本家青信号特派員様、皆さま
          熱中時代を拝見させていただきその知識もさることながら相当な時間同じ場所に滞在し一生懸命撮られていたことに頭が下がります。気に入ったら何度も通いそこをホームグラウンドにするのは山科や叡電からもそれを感じます。私は総本家さんの真似をできませんが自分なりにあちこちに行っていろんな鉄道を撮影してきました。先輩に天野さんという鉄道写真の天才がおられましたが「車両なんかどうでもええんや。ええ構図やシャッターチャンスが大事や。」と言われたことが頭に残っています。そういっても撮り易い光線状態では車両中心の形式写真も撮ります。今は鉄道撮影の条件が悪くなっています。線路際は草が生えすぎたり、安全柵があります。ホームにも安全柵が増えています。車両も画一化され面白みに欠けているのでイベントや初運行、お別れ列車、復刻塗装車などに人気があるのかもしれません。定番撮影地に行けば綺麗な写真が撮れますが、たまには変化球としてあまり人が行かない場所での撮影を考えるようになる人もいるでしょう。「自分がいいと思った写真が一番いいのだ。」これも先人に言われた言葉です。趣味ですからルール守って好きなようにやればいいと思います。

    • 紫の1863様
      しばらく田村には下車していませんが、この駅舎、跨線橋は、何も変わっていませんね。なつかしぃなぁ。田村の周辺には、新快速の延伸に合わせて、工場、大学ができて、乗降客もそこそこあったようですが、そのうちの駅東にある、滋賀文教短大が募集を停止するというニュースがありました。この付近には不似合いな女子大生の乗り降りも、まもなく見られなくなるのですね。

  2. 総本家青信号特派員様
    長い間「白鳥」は北陸本線の『女王』の位置を占めていましたが、東北新幹線の八戸延伸により「八戸-函館」間の北へ飛び立ち、北海道新幹線の開業により絶滅してしまいました。何度も乗車しましたが、一番思い出深いのは1990年8月22日に出張の途上485系の「青森-大阪間」を乗り通したことでした。この日は前日の午後に札幌で会議があり、翌々日の午前に連続して大阪で打ち合わせがあったので、これを札幌-「はまなす」-青森-「白鳥」-大阪で移動しました。この時、遠軽や「はまなす」の函館のように列車が新潟でスイッチバックするのでシートの回転は大丈夫かなと案じていましたが、心配は無用で私以外の乗客は全員が入れ替わりました。
    1985年3月ダイヤ改正で登場した419系は、当初は赤2号にクリーム10号の帯を入れた「旧北陸色」で雪景色にも映える好ましい塗り分けでしたが、1988年から1991年にかけてオイスターホワイトにライトコバルトブルーの帯を入れた「新北陸色」に変更され、冴えなくなった気がします。湖西線には1991年から2006年まで近江今津以北に入線しましたので「旧北陸色」での運用はありませんでした。
    写真は2012年9月8日の「越中宮崎-市振」間の富山、新潟県境の境川付近を走る「新北陸色」の475系で、駅間を歩きながら準特急様が言われる「つまらんと思っている車両」を撮りました。県境は同時に旧律令国の越中、越後の国境にもなっていて、国境を隔てる中小河川の名称には「境川」が多く使用されているようです。小海線「清里-野辺山」間の八ヶ岳高原号で有名な橋梁の下を流れる川も甲斐と信濃の国境の境川で、山陽本線の「須磨-塩屋」間の摂津と播磨の国境(同時に須磨区と垂水区を隔てる区界)も境川です。

    • 快速つくばね様
      コメントが遅れて申し訳ありません。「白鳥」に全区間乗り通されたのですか、しかも、札幌の会議のあと、大阪の会議に向けての乗車とは、鉄道趣味の鏡です。私は結局、「白鳥」に、短区間すら乗らず仕舞いで、永遠の憧れのまま終わりました。以前「鉄道ファン」の初期号で、大阪から上野行きの「白鳥」に乗った際の旅行記を今でも覚えています。乗ることが趣味活動の一部であることを知りました。「境川」は、各地にあること、興味深く拝見しました。

      • 総本家青信号特派員様
        コメントありがとうございます。証拠の自由席特急券がありましたので貼り付けます。この時は区間により席が替われるようにしたため自由席としたのですが、今となっては「白鳥」と印字された特急券でなかったことが悔やまれます。
        乗り継いだ「はまなす」は、津軽海峡線(青函トンネル)開通に伴い廃止された青函連絡船の深夜便の代替として、1988年に運行を開始し、この年は運行を開始して2年目で、後年の多種類の客車の編成ではなく14系客車の座席車のみの編成で「海峡号」と共通運用でした。
        北海道新幹線の新函館北斗開業に伴い2016年に廃止となりましたが、かつての「たるまえ」、夜行「すずらん」、快速「ミッドナイト」の時間帯で、函館-新函館北斗-札幌間に区間短縮し、新幹線の下り最終と上り始発に接続させれば新幹線が札幌まで延伸するまでの間、十分航空路線に対抗できたと思いますが、残念でなりません。
        おまけの最下段の硬券は1967年の先代の「はまなす」の座席指定券です。この時は小樽-網走間の気動車急行で、席番を見るとA~Dの表示がなく、当時は国鉄札幌販売センターで台帳管理されマルスに収容されていませんでした。数字の連番ですがボックス席の場合、奇数番号が窓際でした。

      • 快速つくばね様に対抗する気はありませんが、「白鳥」の文字があるきっぷを貼り付けます。大阪-青森の全区間でないのが残念です。1号車1番A席で喜びましたが、ずっと壁とにらめっこしていたのを覚えています。京都から新潟までだったのか、それとも新潟から青森だったのかは忘れてしまいました。ただ、車両はクハ485の1500番とメモしていました。
        昭和49年の京都駅ではマルスで発券していましたが、人気列車の座席が取り合いになるのを避けるため、始発駅や沿線の主要駅には実績に応じて確保してあったようです。大阪駅に1号車1番A席を割り当ててもよさそうなものですが、「目の前が壁」が嫌われたのでしょうか。
        席番だけの指定券を見るのは初めてで、ABCDが当たり前と思っていました。知らないことを教えていただき、ありがとうございます。
        下のニセコ1号は第3希望で、函館からの特急は取れませんでした。

      • 紫の1863様
        「白鳥」の特急券をお見せいただきありがとうございます。特急券は京都-青森となっていて翌日青函航路の深夜便を乗り継いで「ニセコ1号」に乗車されたのですね。
        私も北陸本線で同じような経験をしました。1989年のダイヤ改正から富山方先頭車に前面展望を楽しめるパノラマ型グリーン車(クロ481形2000・2100番台)を連結した「スーパー雷鳥」が運転を開始しました。この列車は湖西線内の最高速度が130 km/hに引き上げられ、大阪-金沢間は最速2時間39分で運転されるということで、一度は乗っておきたいと思っていました。たまたま大阪、金沢の連続出張があり1991年3月6日に実行することにし、シートは運転席に向かって通路を挟み向かって左側が2席、右側が1席になっているので座席配置を見て先頭の一人席の9号車12番C席を確保しました。当然のことながら前面展望は抜群で、結果としてグリーン車に乗車したもののこれほど疲れた乗車経験はありませんでした。
        京都駅で購入された席番は窓口枠といわれるものですね、始発駅近辺の駅にあらかじめ割り当てられた席番です。お盆年末年始の特急寝台券がプラチナチケットだったころ、東京から佐世保に帰省する人が「さくら」の寝台券が東京の「みどりの窓口」では取れないので、実家のある佐世保駅で確保していたという話を聞いたことがあります。

  3. 総本家青信号特派員様
     懐かしのシーンの数々、有り難うございます。
     湖西線が開通した後は、北陸線で敦賀に向かう機会は、強風時の迂回運転位しか乗る機会がなくなりました。
     しらさぎ、加越、くずりゅう、きらめき等々今や貴重なシーンですね!
     雪を抱いた伊吹山は素晴らしいですね!余呉湖も!
     上野行き白鳥は鉄道最盛期の旅情がかき立てられますね!
     時代は変わりました。一日も早く新大阪発東京行きの北陸新幹線が走り出すことを願います。
     

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.