その後の交直接続区間 機関車編
米原~田村の交直接続区間の蒸機牽引は、昭和43年ごろに終わり、そのあとはDD50、DE10に代わり、“熱中時代”も終わりますが、その後も機会あるごとに同区間へ行き、その変化を確認してきました。同区間を含む北陸本線の出来事をまとめますと、昭和44年に直江津まで電化が完成、北陸本線は全線電化となります。昭和49年には湖西線が開業、大阪発着の特急などは同線経由となり、米原~田村は一挙に寂しくなりました。そして、平成3年には長浜まで直流化され、北陸本線にも新快速電車が走り、平成18年には、敦賀まで直流区間まで延伸、新快速も敦賀発着となります。
▲交流電機3形式のうち、その後も残ったのはEF70で、ED70、ED74なきあと、敦二区、富二区の81輌が田村~糸魚川で客貨を牽いて活躍した(田村付近)。
▲田村を発車するEF70の牽く貨物、蒸機の煙で賑やかだった田村も、すっかり静かな接続駅になった。
▲北陸本線の普通列車の中心だった客車列車も、昭和60年になくなり、電車化された。それまでも休車や九州転属もあってEF70は減らしていたが、この昭和60年10月改正で全廃となった(長浜付近)。
▲そのあとは、湖西線開業後に量産されて、どこでも走れる3電源方式のEF81が、すべての客貨を牽くようになった(新疋田)。
▲新疋田の大カーブを行く。湖西線開業、直流化延伸で、撮影地としての米原~田村も魅力が薄れて、新疋田へ通うようになった。
▲EF81は164両製造された。さまざまな派生形式や塗装変更があった。「トワイライトエクスプレス」専用に塗り替えられた緑+黄もその一種で、「日本海」牽引にも充当された。
総本家青信号特派員様
初めて北陸本線を乗り通したのは1965年8月18日~19日の3501列車「第2日本海」に乗車した時でした。当時の電化区間は富山までで、直江津で接続する信越本線も長野-宮内間が非電化だったのでこの区間はD51が牽引していました。
北陸本線として最後に金沢-直江津間を乗車したのは、北陸新幹線の金沢延伸を4か月後に控えた2014年11月30日でした。写真は東滑川-魚津間の早月川橋梁ですが、この時点では「はくたか」、「北越」、臨時の「トワイライトエクスプレス」が元気に走っていました。
北陸新幹線の敦賀延伸により「ハピラインふくい」、「IRいしかわ鉄道」、「あいの風とやま鉄道」および「えちごトキめき鉄道」の4社に分割されてしまいました。残念なことに交直切替セクションをそのままにして移管したので、各社は将来的にわたってこの区間を通る列車は交直両用車か気動車に限定され高額な維持費が必要となっています。移行時に各社の境界駅の敦賀、市振(現実的には泊)の地上切替に変更して移設していれば、「えちごトキめき鉄道」は妙高はねうまラインと同じ直流電車、他の3社は交流電車に整理できたのではないでしょうか。
快速つくばね様
北陸本線の思い出、ありがとうございます。急行「第2日本海」、私はよく知りませんでした。調べますと、1960年代の夏臨としての設定で、大阪~秋田の運転で、ある年は下りのみ、ある年は上下とも運転で、一等も含め、すべて自由席だったようです。
いまの第三セクターの電源区切り、たしかに敦賀付近の交直接続を、敦賀の車上切り替えに変更しておけば、ハピラインは、交流専用で済むのですね。