交直接続区間 米原~田村で熱中する ③
初めて米原~田村の交直接続区間を訪れた昭和40年は、湖西線が開業するもっと前のことで、その前身たる江若鉄道がまだ元気に走っていた時代でした。京都・大阪から北陸方面への旅客・貨物は、すべて米原経由で運転されていました。名古屋方面からの列車も加わって、米原~田村はボトルネックのようになって、列車の頻度も相当なものがありました。今回は、蒸機・電機以外の電車。DCを見ました(昭和40年8月、41年2月撮影)。▲特急用の481系交直両用電車は、その前年、昭和39年12月から走り始めたばかりで、この区間では、大阪~富山の「雷鳥」、名古屋~富山の「しらさぎ」が見られた。朝に米原に着くと、まず通過するのは、下り「しらさぎ」で、ピッカピカの車体で、オリジナルのボンネットスタイルがまぶしかった。
▲続いて通過するのが、昭和36年から走り始めている80系DC「白鳥」、上野・青森行きの7両編成2本の14両編成は、日本海縦貫線の女王とも言うべき貫禄があった。
▲下り「雷鳥」は、午後からの通過になる。こちらも481系60Hz車のオリジナル塗装だ。特急は以上3本だけで、愛称のあとに「第◎」も「◎号」も付かなかった。特急、急行、準急を合わせた優等列車は、米原~田村で14往復であり、ささやかな本数だが、同じ行き先でも別個の愛称を名乗り、今とは比べものにならない“格”があった時代だった。
▲メインとなる優等列車は急行列車で、一部の客車列車を除いて、471系電車だった。大阪~富山を結ぶのが「越山」、前項でも記したが、愛称として持ったのは1年だけで、その後は「立山」に吸収されてしまう。
▲金沢へ行くのが「越前」「加賀」で、臨時で「ゆのくに」もあった。▲老舗の急行「立山」は、長らくスハ43系の客車編成で残っていたが、昭和40年10月改正で、471系電車に置き換えられた。
▲さらに58系DC急行として、新潟行き「きたぐに」、和倉行き「奥能登」が併結されて、堂々の12両編成で運転されていた。
▲いっぽう、「準急」の種別が健在だったのも、この時代で、名古屋を始終発とする、東海道・北陸・高山線経由の循環準急「こがね」(写真:左 外回り)、「しろがね」(写真:上 内回り)があり、全区間10時間以上乗っても料金は100円と、おトクな“長距離準急”だった。中部支社独自の塗装“準急色”も見られた。
▲普通列車には、長浜、彦根という、湖東地方の二都市を両端に控えているため、ローカル輸送でも一定の需要があった。米原の乗り換えを介さずダイレクトに結ぶ彦根(米原)~木ノ本の区間列車が、キハ20系で運転されていたのも特徴だった。
総本家青信号特派員さま
懐かしくも特急増発期の明るい未来を感じてワクワクしていた頃でしたね。「白鳥」の14連には驚きました。東海道・山陽線の幹線筋でも最大15両でしたから、マルーンさまには失礼ながら裏縦貫線の長大編成はビックリでした。「雷鳥」と「しらさぎ」の運転開始当初は481系の両数が窮屈だったのか、まず運用ありきのダイヤ設定で、そのうえで需要を考慮したもののようでした。昼に大阪を出て富山へ「雷鳥」、直ぐ折返して「しらさぎ」で名古屋泊、翌日富山往復で夕刻に大阪へ戻る運用でした。結果的に「雷鳥」は観光客に、「しらさぎ」はビジネス客向けのダイヤになりましたが、当時はまだまだ急行が主役でしたから、特急化にはやや及び腰であったようにもみえました。
準急「こがね」には米原~富山~名古屋間を乗り通したことがありました。100円だったか150円だったかの準急券を、米原のホームで売り歩いていた駅員から買って乗り込みました。当時の編成は55系と58系が半々くらいで、まだまだ55系が活躍していました。昭和40年春のことでしたが、当時信州のローカル線に興味があり、各線制覇のために弟と二人で一筆書きルートを回った際でした。EF65が登場した頃で京都から米原までのクハ86非湘南型の運転台後ろに陣取っていて、初めて65とすれ違いました。
「きたぐに」は大ミハの58系が増結されていましたが、基本編成は夜行「ちくま」と共通運用の長ナノの57系でした。
敦賀・木ノ本~彦根間のキハ20は柳ケ瀬線(旧北陸線)時代の遺物でした。同線廃止までは同線回りでしたが、廃止後は早朝敦賀を出て彦根へ、木ノ本を数回往復して夜敦賀に戻るという運用でした。鳩原ループ切替前なので、新疋田までの上り勾配を15分かけて登っていました(EF70の客レは11分)。因みに湖西線開業後の近江今津~敦賀間にもDCが運用されていましたが、前記彦根運用を彷彿とさせるものでした。尤も時代は移り優等から格下げされた55や26になっていましたが。
とりとめのない話で恐縮でしたが想い出の一端でした。
1900生様
北陸本線の列車の思い出、ありがとうございます。当時は特急に乗車することなど、無縁の高校生で、ただ撮影するだけでしたが、お書きのように、鉄道の未来にワクワクした良き時代でした。「白鳥」は設定当時は、6両×2でしたが、好評のため昭和38年10月改正で、7両×2に増車されています。撮影の翌々月の昭和40年10月改正で上野行がなくなり、青森行きの14両、うち4両は新潟解結になりましたから、食堂車2両のこの時代が華やかな時代でした。「雷鳥」と「しらさぎ」は481系の共通運用でしたね。481系は、東海道新幹線の開業から走る予定でしたが、製造が間に合わず、昭和39年12月から走り始めていて、車両のやりくりには苦労したことと思います。「こがね」「しろがね」は、100円の準急としては、かなりの長距離を走る列車で、私も時刻表の誌上旅行でよく楽しんだ思い出があります。当時のDC急行「きたぐに」は、キハ57系でしたか、初めて知りました。米原付近の近郊区間のDCは歴史が深いです。これは柳ケ瀬線の関係もあるのですね。国鉄DCの祖と言われる、戦前のガソリンカー、キハニ5000も長浜~彦根を走っていました。
優等列車はみな長編成で、貫録を感じますね。交直流急行電車はサロ×2両にサハシ×2両を組み込んだ堂々の12両編成で、見ごたえがあります。愛称も旧国名や山の名がつけられ、故郷に思いを馳せる方もあるのではないでしょうか。いろいろな愛称を付けた列車が行き交い、多くの形式が見られた時代を懐かしく思い出します。とはいえ、私が見るのは数年後になるのですが。
北陸の急行で思い出すのは「くずりゅう」で、普通車ばかりの6両編成でした。総本家様が撮影された時期は敦賀-金沢間の準急でしたが、昭和41年10月改正で急行に格上げされ、運転区間は米原-金沢間に延長されます。米原で新幹線からの乗り継ぎ客に重宝されたのではないでしょうか。愛称は福井県を代表する「九頭竜川」から採られたもので、けっしてクズの龍ではありません。初めて「くずりゅう」に乗ったのは昭和44年の夏休みですが、まだ趣味に目覚める前で写真はありません。添付の画像は昭和50年4月に米原で写しました。
紫の1863様
「くずりゅう」の思い出、ありがとうございます。お書きのように、「くずりゅう」は、初代として471系の間合い運用で敦賀~金沢で走っていたのですね。ところが、1年で無くなり、米原発着の「くずりゅう」は、2代目として昭和41年12月からの走り始めたとのこと。身軽な6両編成は、よく見かけました。新幹線との接続や、京都・大阪へも米原で快速に乗り換えなどに重用されました。とくに米原~福井は99.9kmと、ギリギリ100km未満のため、料金も安くて便利に使われたようです。
総本家青信号特派員様
どれを見ても懐かしいですね!
まさに、青春真っ只中ですね。
ただ、学生の分際では、学割で471系の急行利用が主でしたね。
こがね、しろがねも懐かしいですね!
コメントのタイミングが遅くなってすみません。