わが 鉄道熱中時代 ~6~

交直接続区間 米原~田村で熱中する ④

米原~田村の交直接続区間の歴史を少し。昭和32年10月、田村~敦賀で初の交流電化が成り、交流専用のED70が造られて客貨の牽引を始めます。米原~田村は複線化されますが非電化のままで、E10による蒸機接続を行なっていました。昭和37年12月に、同区間が直流電化され、田村駅の南側に交直セクションが設けられました。交流電化のテスト線区としても着目され、関門用のEF30の試作機1号機や、常磐線用の試作機ED461も、この区間でテストされたり、蒸機接続の代わりとして、日本車輌で試作されたDD931も入線しています。北陸本線は、北陸トンネルの開通により福井まで電化したのが昭和37年6月、金沢へは昭和38年4月で、電機もED74、EF70が新製され、逆に余剰のD50、D51が交直接続に転出し、私が初めて訪れた昭和40年に見た光景へと続いていきます。今回は、この時代の田村以北の交流機の活躍を見ています(以下、昭和40、41年撮影)。初の量産形の交流電機、ED70の 1号機が牽く上り普通列車、昭和32年に1~ 18が、翌々年に改良形となる19の計19両全機が製造され、おもに客車列車を牽いた。同機は長浜鉄道スクエアで保存中。田村~長浜

EF70の1号機が、長大な貨物列車の編成を牽く。北陸本線用の貨物機として1200トン牽引を目指し、軸配置はB-B-Bで、日本の交流電機としては初のF形となった。昭和50年、木之本にてこちらはED74の1号機、田村を発車した下り普通列車。昭和38年の金沢電化時に、ED70に代わる新たなD形電機として、ED74が製造された。EF70を、そのままD形に短縮したようなスタイル、以後はEF70が客貨とも通し運用することになり、6両で打ち切られた。昭和43年に日豊本線用として、改造のうえ移動した。田村の機留線には、いつも交流機が待機していて、時には、ED70、ED74、EF70の3形式の並びも見られた。ED70は、DF50と似た前面で、小振りな車体に側面フィルター、屋根上の機器が特徴で、前面下部の飾り帯もED70らしい。この時は、前面貫通だったが、のちにスキマ風防止のため埋め込まれた。列車暖房がなく、冬期は暖房車を連結したが、その後、電気暖房を取り付けた。EF70、ED74が投入されてから、主に旅客・荷物列車を牽引した。昭和49年の湖西線開業で、EF81が大量投入され、昭和50年までに全廃された。昭和37年に北陸トンネルが開通し、日本海縦貫線のひとつ北陸本線の列車単位は大きく、将来的に1,100トンまで列車単位が引き上げられる予定だった。トンネル特有の多湿条件のなか、余裕をもたせて、交流機としては初めてF形が製造され、北陸本線の主力機として増備された。昭和36年から計81両が製造され。22号以降は設計変更がされている。田村ではD50が休み、隣で交流機と同居していた。右手には駅舎があり、現在も駅舎は変わっていない。田村まで牽いて来たD50を横に見て、発車していくEF70牽引の下り列車。すべて片パンを上げた、EF70の三重連もあった。

 

昭和43年10月改正で寝台特急「日本海」が走り始め、110 km/h運転対応の1000番台が7両改造された。上り「日本海」の運転初日に田村を通ると、さっそくヘッドマークを掲げた1000番台車をとらえることができた。田村に着くと、交直接続機が離れて、交流機に付け替えられる。赤い電機を見ると“北陸へ来た”と感じたものだ(昭和57年)▲▲交流機の場合、パンタは、進行の後位を使用するのが原則だったが、のちに、2位側のパンタを常用することに変更された。写真のように前パンとなる場合があった。

 わが 鉄道熱中時代 ~6~」への9件のフィードバック

  1. 米原-田村で見られた赤い交流電機、楽しませていただきました。ED70には何とか間に合いましたが、ED74は九州へ転属した後で見ることは叶いませんでした。田村で顔をそろえたED70・74・EF70の3形式の並び、EF70の3重連、こんな列車もあったのですね。それにしても3形式共に1号機を撮影されているとは! お見事です。
    米原は近いようでも、当時の私には遠い場所でした。昭和50年2月、テレビで湖北に大雪が降ったと知り、2~3日して出かけるとすっかり溶けてしまってがっかりしたのを覚えています。米原から乗った列車はたぶん長岡行き、田村でED70 4と交代して発車していきました。動いているED70を見た最初で最後の姿で、4月にはもう見られませんでした。
    添付の画像は昭和50年4月29日、北陸本線の車窓から写した敦賀機関区のED70で、4両が見えます。3月のダイヤ改正で運用を外れ、大量のED70が留置されていました。

    • 紫の1863様
      交流機の思い出、ありがとうございます。1号機については、別に意識して撮ったわけではありませんが、たまたま3形式とも撮っていたため、ちょっと自慢したくて(?)載せました。昭和50年2月の大雪の時にも行かれているのですね。私はその時、ED70を撮るため余呉まで行っていましたが、あまりの大雪で、外へも出られず、駅で写しただけで早めに帰って来ました。京都もすごい降雪で、京都駅から市電2系統に乗ったところ、河原町通が大渋滞で、普段なら30分以内で最寄りの停留場に着くところ、1時間かかって這う這うの体で着いたことを覚えています。写真は、ED701が敦賀機関区で保存されていた時代です。深紅の車体がまぶしいです。

  2. 総本家青信号特派員様
    管理が悪く褪色して投稿するような写真ではないのですが、1967年4月29日のEF70が牽く北陸本線の上り列車です。この日の午後、木ノ本から余呉まで歩いて通過する列車を写しましたが、残念ながら列車名は記録していません。
    また脱線しますが、米原駅の井筒屋さんは2025年1月1日、公式サイトで、駅弁事業からの撤退を公表しました。駅弁の販売は2月28日までで終了するようです。撤退表明にあたり「米原はもはや交通の要衝ではなくなった現在、構内営業者としての井筒屋の役割も十分に果たすことができ、業跡を残すことができたと思っております」とコメントされています。はっきり言われていませんが、昨年の北陸新幹線の敦賀延伸により首都圏から北陸への旅客の流れが変わったことも大きなの要因になっていると思われます。
    昭和40年代前後の時刻表には駅弁販売駅が標記され、欄外には販売駅の幕の内弁当でない「特殊弁当」が掲載されていました。当時は情報も少なく、駅弁を購入する場合は可能な限り現地の名産が入っている「特殊弁当」にしていました。米原は言わずもがな醒ヶ井養鱒場のマスを使用した「ますずし」でしたが、バブルの頃は近江牛を素材にした弁当など品数が増えましたが、そんなものに目もくれずに粒山椒の入った「ますずし」を買い続けていました。
    一方、新しく交通の要衝となった敦賀駅では塩荘さんが特殊弁当として「鯛ずし」を販売していますが、問題となっている新幹線と在来線の相互間の乗継時間では在来線改札内の売店で駅弁を買うことができないようです。『敦賀駅での乗り換え時の利便性向上を目的に』(JR西日本のプレス発表の文章です)昨年の12月1日から敦賀駅乗り換えコンコース内で駅弁のワゴン販売を始めたようです。

    • 快速つくばね様
      木之本から余呉まで歩いて写されたのですか、鉄道距離でも4キロ余りあります。私は余呉で降りて、駅の周囲で写しただけです。米原の井筒屋さんも、駅弁から撤退ですか、いつもホームから上ると、改札口のなかに出店していたのを見ていますが、あまり売れていなかったようです。新幹線敦賀延伸による旅客流動の変化も影響を与えたと書かれていますが、同感ですね。東京行き「ひかり」に乗って米原に着くと、今まで相当数の乗客がありましたが、新幹線延伸後は、目分量で約半分になっています。やはり福井・敦賀から東京へ行く場合、北陸新幹線に流れ、米原での乗り換え減少につながっているのでしょう。井筒屋と言えば、以前はホームの駅そばも営業していましたね。写真のように、青春18きっぷの題材にも使われましたが、いまのホームに供食設備はいっさいありません。

      • 総本家様 1863様 つくばね様
        私も米原の駅そばを写していました。昭和55年11月9日です。停車中の列車は10時33分発長岡行で23時23分に着きます。旧型客車、赤電話にネット入りみかんの値札・・昭和の雰囲気が感じられるかつての米原駅です。
        この日は急行大社号を利用して敦賀、天橋立を通って豊岡まで乗りました。車中井筒屋さんの鱒寿しを食べましたが、つくばね様がお仰るように、頭からしっぽまである開きの形状でした。醒ケ井の養鱒場で前日まで泳いでいた鱒を調製したと中に入っているカードに書いてありました。

        • 勘秀峰さま
          駅そば店、青春18きっぷの舞台になった店ですね。すべてが昭和の情景、いいです。北陸本線は、客車は電気暖房のため2000番台で、この数字を見ただけで、北陸への没入感に浸ったものです。シルやヘッダーの無いオハ35系もいましたね。 

    • ホームの駅そばは、もうなくなっていたのですか! ざんねん…
      「青春18きっぷ」のポスターは私好みのデザインがたくさんありました。中でもこれは一番のお気に入りで、こんな写真を撮っています。平成7年3月の撮影ですので、30年近い昔のことになりました。

  3. 先のコメントで田村以北とするべきところを「米原-田村で見られた」と書いてしまいました。謹んでお詫びするとともに、訂正させていただきます。
    快速つくばね様のお気に入り、米原駅井筒屋の「ますずし」です。1997年4月の購入ですので、当時とは変わっているかもしれません。

    • 紫の1863様
      早速の画像投稿有難うございます。私の井筒屋の「ますずし」のイメージは、サンマの開きを寿司にした形で、いまは「元祖面構え鱒寿し」と呼ばれているようです。頭も尻尾も付いているので、私は頭の部分も食べていましたが、確かに一般の人には食べにくいため、このような形に進化したのですね。
      逆に富山駅の「ますのすし」を買って、これが「ますずし」かとビックリしたことがあります。

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