令和5年の大雨で被災し、それ以来全線運休が続く美祢線ですが、未だに復旧方針が決まっていません。ようやくJR西がBRT化が妥当との態度表明をしましたが、55億円と約3~4年の工期を要するという試算です。更に高齢化、過疎化が進み、通学生も減るのは目に見えています。三江線に代わったバス路線も大幅な赤字で存続が危ぶまれています。美祢線も同じ轍を踏むのでしょうか。
いつものように、中国新聞記事を2つご紹介します。
10年前の 平成26年5月2日に撮影した南大嶺駅の写真を添えておきます。
石炭輸送で賑わい、盲腸線の大嶺線があった時代の写真を撮っておられれば、是非ご披露下さい。
美祢線の話題、非常に辛い気持ちがあります。
かつて急行「あきよし」が山陰本線から美祢線を経由して下関・小倉に出て、さらに日田彦山線で日田方面までを結んでいました。この両側のローカル区間が命運尽きようとしています。
個別の原因や理由は箇条書きすれば、鉄道雑誌の記事1本になるでしょう。
しかし私は個人的に、今現実の問題となった日産と松下パナソニックの危機と共に、長い時間の政治の政策が間違っていて、鉄道の方は国内鉱産資源の価値が下がった為替のいじり損ない。その結果80年代バブルが一時起きますが。
それと同時代の国鉄の解体と貨物列車と旅客列車の機関車の兼用の廃止など、たくさんの失敗がここまでの惨状に繋がっていると考えます。
余計な話題ですが消費税の導入と随時の負荷の上昇で、国内消費経済は平成を通じて、冷えるだけ冷え込み、1億2000万人口の国で、車や家電を中間層が買わなくなったことも、外国人から見て国内マーケットがなぜ、ここまで人口の割に縮小しきってしまったのかと思います。
地方の経済沈下について思っていることは本日は省きます。
美祢線が黒字で貨客運輸が活発だった時代の写真は他にも多くあります。
時間をとって記事を起こすことも検討いたします。
K.H生様 早速のコメントありがとうございます。ドライバー不足、働き方改革を言いながら、長距離トラック輸送は一向に減らず、毎日家庭に届けられる宅配弁当が何と愛知県で量産されて広島県に毎日配送されているとか、三原から尾道に送る郵便物が一旦倉敷に集約されて、届くのに3日かかるとか、合理化、コスト低減を追求する余り、全体として膨大なムダと資源の浪費が続いています。そして大雨や大雪ですぐに物流が止まって大騒ぎ。東京一極集中は止まらず、地方は疲弊するばかりで、永年の政治の無策に情けなくなります。私は美祢線を訪ねたのは1回だけですが、是非元気だった時代の美祢線をご紹介下さい。
これだけです。
普通列車でも5連だった頃の南大嶺駅で撮影
右の単行が南大嶺ー大嶺間の区間列車です。
1977年2月
もう一枚
本来は南大嶺から分岐の線が終点で、正明市(長門市)からの南下の線区が連絡したために、大嶺が盲腸線になりました。終点の大嶺炭鉱は、無煙炭が採掘されて撮影の1978年でも、まだ操業が細々続けられていました。
西村様
美祢線の現況、復旧試算も拝見しました。BRTも復旧案のなかにあること、初めて知りました。「BRT」が、やる気のないローカル線再建から逃れる常套句のようになっていますね。長期間不通になって、最近、BRT化された日田彦山線の添田以南も、開業直後はテレビなどにも採り上げられていましたが、今はどうなんでしょうか。まだ美祢線が走っていた時代、30年ほど前、一度だけ行きました。石炭はなく、石灰岩の輸送でしたが、DD51がピストン輸送していたなど、蒸機の無い時代ですが、もうはるか昔の思い出となりました。
この時、8月に大嶺~南大嶺の支線も乗っていました。石炭輸送が終わり、広大な空き地が広がっていました。キハ237の1両で、車内は18きっぷ客4人とメモに書いてありました。歴史的には、明治38年開業の古い駅で、12哩の哩程標など、見どころのある駅でした。
遅ればせながら美祢線の状況が危機的だとわかり残念です。過疎化が進み旅客だけでは復旧しても収支が合わないのでしょうね。趣味的にも以前は山口線のSLやまぐち号を撮影するついでに小野厚狭でブルトレ撮影と美祢線のホキなどを組み合わせて撮影できる魅力的な路線でした。復旧してほしいですが難しいでしょうね。昔、撮影した赤ホキです。2007年4月6日撮影