<仙台空港線と登米の散策2 2007.5.19>
仙台まで新線乗車に行ったあとは、かねてから訪ねたいと思っていた登米(とよま。行政区の名称は「とめ」)まで足を伸ばした。仙台駅前から1日5本のバスで約一時間半、「宮城の明治村」の別名がよく似合う静かな町である。とよま明治村の停留所で降りて観光の拠点「遠山之里」に立ち寄り、ミュージアムの割引共通券を買って歩いて散策を楽しんだ。教育資料館→警察資料館→水沢県庁記念館の順に回り、展示品の中にかつて登米を走っていた仙北鉄道の写真を見つけ、まだ駅舎が残っていると聞き、県庁記念館で受付のベテラン女性に道を教えてもらった。予期せぬ廃線跡巡りに心が弾んだ。

旧登米駅舎の入口。腕木式信号機や車輪さえなければ見逃してしまうほど

後ろに回ると改札やホームなどがある。廃止後の施設を効果的に活用していたが
開通当時に建てられた登米駅の駅舎はまだ健在で改札、ホーム、便所もそのまま残っておりバスはホームから乗る構造だったが、運行していた宮交登米バス(宮城交通のグループ会社)は訪問した前年の平成18(2006)年9月で廃止となり、バスターミナルは無人で「駅舎」の中には入れなかった。それでも待合室には仙北鉄道で活躍した機関車やディーゼルカー、廃止後のバスの写真を掲示しているのが見えた。

待合室は施錠されていたので外から撮影

まだまだ運転可能な小型バス。ナンバープレートを外されて物悲しい
仙北鉄道登米線は大正10(1921)年10月、東北本線の瀬峰~登米間28.6㎞が全通した軌間762mmの軽便鉄道である。昭和30年代後半には12往復のディーゼルカーが1時間5~10分で瀬峰~登米間を運転していが、戦後のモータリゼーションの波に飲まれ昭和43(1968)年3月廃止された。廃止後、廃線跡の一部はバス専用道路として再利用されたのち、自治体管理へ移管されている。
<昭和38年6月現在のダイヤ。瀬峰~登米間を1時間5~10分で結んでいる>
仙北鉄道廃止後地域の足として運行していた宮交登米バスは平成18(2006)年9月で廃止となり、10月から登米市民バスが走り始めた。10余りの路線、1日5本前後と足と言うにはいささか心細い。車輌は今まで通りでミヤコーバスに運行を委託している。駅舎ターミナルの空地には廃線→市民バスの移管で余剰となったバスがナンバープレートも外されてスクラップになるのを待っていた。

改札も屋根もスピーカーも39年前の廃止当時のままの様子だった

ホームにはもう使われなくなったバスストップが3つ、そのままになっていた
旧仙北鉄道登米駅舎は、私が訪ねたおよそ半年後の平成19(2007)年12月に老朽化により解体されました。この時点で鉄道の廃線から39年。大正10年の開業からは86年が経過し、いろいろな補修を施しても建物の限界と判断したのでしょう。駅舎解体時には神棚が見つかったそうです。以下は登米市のHPの記載です。「神棚は駅舎の当時中央にあったと思われる柱に据え付けられていて、中には男女一対の人形と棟札が納められています。棟札の裏側には、駅舎が建立された「大正9年11月14日建立」の文字が記されていて、仙北鉄道が開通する1年前に完成していたことがわかります。」当時の鉄道や駅舎に対する尊敬の念や安全運行への誓いが見て取れるようです。

登米のミュージアム、教育資料館に仙北鉄道社歌の額が掲げられていた

重文 旧登米高等尋常小学校が教育資料館になっている
一期一会とでも言いましょうか、たまたま訪ねた登米で仙北鉄道の遺構に出会えて、それが半年後に解体されるとは、運命的な出会いをしたものです。(続く)
登米には2001年に行きました。この年宮城県で国体があり、当時高校生の娘が国体のボート競技に出場したので家族で応援に行ったのです。レースがあったのは当時の迫町にあった長沼ボート場で、レースの合間に旧登米町にも行きました。仙北鉄道の廃線跡があったのは知っておれば訪問できたのですが残念でした。
最終日は9月11日、台風接近で、飛行機が飛ばないのではと心配しましたが無事に帰ることができました。夜に家に帰るとアメリカの同時多発テロのニュースが入ってきて驚きました。鉄道とは直接関係がありませんが登米は記憶に残る場所となりました。
大津の86さま
登米でのご家族の思い出、ありがとうございます。宮城県内陸部に立派な漕艇場があるとは初耳でした。地図で見ると長沼は「沼」と名付けられてはいますが、周囲20キロ以上ある大きな天然の沼ですね。ボート場の周辺は整備が進んで、お手掛けスポットになっているようです。
長沼のある迫(はざま)町や登米(とよま)町を始めとする登米(とめ)郡の8町などが合併して登米(とめ)市になったのは平成17(2005)年7月です。市役所は旧迫町の佐沼にあります。
佐沼は瀬峰から登米まで走っていた仙北鉄道のほぼ中間にあたる大きな集落で、瀬峰からの区間運転があったほか、客車の増結も行われていたようです。
添付した写真は旧登米警察署、現在は警察資料館です。明治22(1889)年竣工の洋風建築です。
登米には2006年7月27日に訪ねています。栗駒山登山やくりはら田園鉄道訪問のあとに立寄っています。仙北鉄道には残念な思いがあります。丁度仙北鉄道の廃止日にたまたま東北本線瀬峰駅を通りかかったのですが、友人とここで途中下車しよう、いや先を急ごうと言っているあいだに列車は発車してしまい、結局仙北鉄道の最後の姿を見届けられませんでした。そんなこともあって登米には行って見たかったのです。勘秀峰さんご訪問の約1年前ですから、駅舎跡はそれほど変わっていないようで、腕木信号機もBタンクの動輪もありますね。赤い自販機の場所が変わっていますね。この駅舎はもうないのですね。飾ってあった機関車の模型などはどこに行ったのでしょうね。登米の街はまさに宮城の明治村で大変印象深い街でした。
西村様
廃止当日の仙北鉄道に取り損ねられたとのこと。旅先で同行者と鉄道や見学地をめぐって意見が合わないことは私も経験があります。
私が旧登米駅を訪ねた時は、もう宮交バスが廃止された後で、駅舎の中には入れませんでしたので、添付の写真を見てうらやましく思います。バス案内所では名鉄の宅配便も扱っていたのですね。
駅舎が解体されて機関車模型の行く末を心配されておられますが、次のコメントに「教育資料館に保存」との情報が寄せられています。まずは何よりです。
いつも楽しみに拝見しています。昨年の夏、登米の小学校を訪れました。教室の一つが仙北鉄道の展示に充てられていて、件の軽便蒸気の模型も展示されていました。旧・登米駅舎に保存されていた仙北鉄道関連の資料の多くがここに移されたものと思われます。現役時代の動画も見られるようになっています。
奈木野様
デジ青にコメントくださり、ありがとうございます。最近、登米の教育資料館へ行かれたとのこと。旧登米駅舎に保存されていた資料を活用して仙北鉄道の展示をしているとのことで、さっそく調べたらSNSでの探訪記が2~3ありました。写真を見ると、教室の壁面に多くの資料が展示されていました。ミュージアムの所蔵品となれば、長期にわたり仙北鉄道の資料が良質な状態で保存できるでしょう。
貴重な情報をありがとうございました。
登米の話の輪に遅れて参加します。2007年、まもなく無くなる“くりでん”を写し終えて、あとは夕方の飛行機までの自由時間、さてどこに行こうとなり、仙北鉄道の廃線跡が登米付近にあると聞き、急遽、行くことにしました。仙北は瀬峰から出ていますが、地図を見ると、手前の新田の方が廃線跡に近く、くりでん近くの石越から新田まで行き、そこから約6キロ先の登米を目指して歩き始めたのでした。たしかに途中から地図の上では廃線跡を歩いているものの、廃線の雰囲気はゼロ、重いリュックを担いでやっと登米に到着、たしかに駅舎らしきものが‥、ところが時計を見ると、飛行機までの時間がない、あわてて、すぐに来た仙台行きのバスに飛び乗り、何とか間に合いました。重い荷物を背負いながら歩き通して、何の成果もなく、くたびれ儲けの一日でした。
5年前には、佐竹さんのトレランス号乗車の途中に、登米に寄り、待望の東北の明治村を半日かけてゆっくり見学、郵便局で風景印も押しました。
総本家様
最初の登米行、廃線跡の痕跡が分からず、散々でしたね。仙北鉄道が走っていた沿線は、今でも宮城県有数の穀倉地帯ですから、景色も変化に乏しくて大変だったのではないでしょうか。
登米郵便局前の旧型ポストは私が訪ねた2007年当時にもありましたので、大事に使われているのでしょう。コメントを寄せて頂いた方全員が、登米(とよま)を訪ねられて、何となく嬉しい気分です。添付の写真は登米郵便局の近くにある、味噌醤油を製造している豪商の建物です。
1965年3月23日の登米駅です。
京阪沿線の高校2年の春休みに行き、瀬峰~登米間を往復しました。当時、東北本線には、C60、C61がバンバン走り、C59も走っていましたが、そちらには目もくれず、こんなんばっかり撮っていました。
同じ日の登米駅、反対側からです。
藤本様
貴重な写真、ありがとうございました。50年以上前に廃止された東北地方のローカル私鉄を撮影している人はいるかも?と淡い期待を抱いていましたが、それが叶って嬉しいのひとことです。
添付している訪問時の駅舎と比較すると、右側に別の建物と貨物ヤードがあったことが分かります。そしてかわいい車両は当時流行の「金太郎塗り」なんとも長閑な昭和の終着駅ですね。