老人の69年前の広島での思い出

8月3日早朝、3時に目覚めテレビをつけて見た。原爆投下の日に広島で市内電車を運転していた若い女性の、今も健在の方の実話をまじえてのドキュメントが放映されていた。過去に何度も彼女達の話は紹介されているが、広島電鉄が今も残る車両を提供し、千田車庫内で彼女たちがハンドルを握るシーンを再現したものであった。原爆投下後の町の姿を紹介するシーンでは、1946年8月に兄と共に電車から見た光景だな、と思うや蒲団を上げて正座した。

原爆投下後の広島の姿を見た時の老人は満8歳、小学校2年であった。7月、夏休みになるや父母に連れられ母の実家、田舎:島根県鹿足郡六日市町に向かった。呉線まわりの下関行きで目覚め、広島の街を見てびっくりであった。横川駅を出ると大田川の築堤となるが、築堤下には貨車が転がっていた。そして己斐駅、スッカラカン、改札口だけに屋根があった。祖母の葬儀の帰路で乗った宮島線の電車、そして市内線の電車も留置されていた。電車は走っている。乗りたい! 父母は3泊して老人を残し帰京した。一人になっても実家周辺には同年輩の遊び仲間が多数おり心配なしだが、電車狂いには気になるのは己斐駅で見た電車の姿であった。迎えに誰が来るのか、ばんざい!願い通りの兄がやってきた。しめたとばかりに帰路は己斐で途中下車、市内電車で広島駅に出る交渉は成立した。

帰京は8月下旬で、朝6時初発の省営バス岩日線で出発した。途中の峠では満員のためストップとなり、兄や成人男性の後押しでやっと越えることができた。錦川沿いの出会橋から広瀬に向かい、ここで燃料補給は木炭を詰め込み、ガス発生後に出発となった。どれだけ遅れたのか分からないが、兄が麻里布駅(現山陽本線岩国)で接続目的とした列車は出た後であった。やむなく構内留置中の被災車(D52その他)を見に行ったが、兄はスケッチに取り掛かった。そうこうするうちに広島行きの列車が来るというのでホームに向かった。満員だが2人はデッキ後ろの洗面所で隙間を見付け座り込んだ。これが効を奏し、己斐では簡単に降りることが出来た。次は電車だ。停まっていたのは京都市電300型によく似た4輪車で、満員とならずに大田川に向け走り出した。渡ってびっくり、半年前に大阪天王寺、大道の叔父の掘っ立て小屋に父親に連れられた時よりも、酷い光景に手を合わせた。

広島駅に到着後、兄は帰路の列車ダイヤ調べのため一人で改札口に行った。昼食抜きで広島までやってきた弟は腹ペコであった。駅前広場の化粧枕石を見付け腰かけ、作ってもらった焼き握り飯を食べようと思い竹の皮をほどいた瞬間、首周りから2本の汚れた腕が出てきて握り飯はあっという間に姿を消した。振り向いてみると背が高い汚れた顔の少年が2人、にやにやしながら握り飯を腹に納めるところであった。怖い!リックサックを抱えて改札口に走った。彼らの行状を兄に話したが、「お前アホやな、戦災孤児が駅にはたくさんいる。彼らは飢えており、駅に来る人にすがって腹をふくらせていること、話したところじゃないか!」と、注意された。

乗換列車は呉線まわりの岡山行だった。乗車ホームを聞いたのは兄、乗車位置を聞いたのは弟。兄はスケッチブック片手に出かけて行った。弟はホームで胡坐をかいて荷物番。その時に気付いたのが入換え作業中の機関車D51の炭水車、白ペンキでまんが絵が描いてある。2両あり、至近距離は「ねずみ」、離れているのは「水鳥」のようだ。後にディズ二―映画のミッキイマウスとドナルドダックであることに気付いたが、機関手のキャップにはイギリス国旗のシールが縫い付けてあった。広島はイギリス軍の占領下にあったようだ。また岡山では深夜の乗換列車を待つ間、西に向かう貨車に戦車を乗せた列車、関門トンネル用のEF10回送車などを見ることができた。

だらだら話となって恐縮だが、原爆の日に合わせ69年前の事を紹介した。2年前の正月に兄弟で思い出を話し合った一くさり、忘れぬうちにと今回まとめてみた。兄は老人より9歳上である。

2007:08:13、広電5107、中電前、

2007:08:13、広電5107、中電前、これにて広電撮影はおしまいとした

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