<上信電鉄に揺られて富岡めぐり 1 2007.9.17>
9月の平日、休みを取って群馬県の富岡製糸場を訪ねた際、久しぶり上信電鉄に乗った。上信電鉄は高崎とコンニャクやネギで有名な下仁田を結ぶ33.7キロの地方私鉄で明治28(1895)年開業した歴史のある鉄道である。私は関西在住時の昭和57(1982)年1月、東京出張の折に全線乗車をしたので、25年ぶりとなる。
高崎駅ではJR南寄りの乗り場はかつて優等列車の停車する1番ホームと行き来が出来便利だったが、パイプで遮断され乗り換えは不便になっている。弧線橋から上信電鉄の乗り場までの距離もかなりあり足が不自由な人間にとっては辛かった。
訪ねた当時は6形式22両の車両が在籍していた。自社発注車に西武鉄道からの編入車もあり結構バラエティ豊かな顔ぶれとなっていたが、大半は広告電車で、前回訪問時に見かけた、コーラルレッドに紺色ボーダーのオリジナルカラーの電車には会えずじまいだった。
上信電鉄は基本的にワンマン運転で約半数の駅員無配置駅では、運転席の後ろのドアのみ開く。残念ながら電車の床とホームの段差は少なからずある。しかも各駅・車両ごとに段差がバラバラであり、車椅子やベビーカーでの乗降は実際のところ想定してないと思われた。
マイカーの普及で、特に地方私鉄では、高校生や免許を持たない高齢者が主な乗客で、働き盛りの人はまず電車には乗らないので経営が苦しく、バリアフリーの予算にまで回らないのは容易に想像がつく。沿線には私が訪ねた7年後の平成26(2014)年に世界遺産となった富岡製糸場もあるが、観光客はマイカーかガイド付きのツアーバスで来るから、電車を利用する人は少ない。高崎発9時18分の電車は製紙場最寄りの上州富岡駅に40分で着いたが、私のほかに製糸場のほうに向かったのは平日とはいえ2人連れの女の人だけだった。有名な施設があるのに目を覆いたくなる寂しさだった。
でも手をこまねいているわけじゃない。サイクルトレインや無料貸し自転車を企画して利用者の便を図り、増収に取り組んでいる。こういう姿勢を見ると上信電鉄も頑張ってるなぁと思う。製紙場から山あいの美術館・博物館を巡っての帰り、乗合タクシーで東富岡駅に着いた。年配の女の駅員さんがキビキビと動いていた。聞くとアルバイトの駅員さんだそうでブルーの開襟シャツ、右の胸元に「上信電鉄」の朱色の刺繍が、地方私鉄の元気な頃を思い出させた。バリアフリーにはまだほど遠いかもしれないが、歴史あるわれらの鉄道をみんなで守っていこうという姿勢が感じられて、いい気分のまま高崎へ戻ってきた。(上信電鉄 続く)
<昭和57年の乗車>
前回の乗車は昭和57(1982)年1月15日でした。前日までの出張が終わったあとにもう一泊して未乗線区に選んだのが、関西にとって馴染みの薄い群馬県のローカル私鉄でした。上信電鉄には悪いですが、この日は吾妻線の渋川~大前間を新線乗車し、東京駅発の銀河で京都に戻る予定でしのたで時間を逆算して、上信電鉄に乗ることにしました。
高崎にて。昭和39(1964)年に登場したカルダン駆動の200形は2002年まで活躍した
終点の下仁田が近づくにつれ、関西では見たこともないとんがった山々が迫ってくるのが印象的でした。旧型車の塗装はコーラルレッドに紺色ボーダーと、群馬県のからっ風を連想し「関東に来た」と言う思いが強くなりました。
屹立した山々が迫りくる終点の下仁田駅。関西にはない光景
昨年(2024年)3月31日の下仁田駅です。正面の耳のような山は、鹿岳(かのだけ)と言います。
上信電鉄は、社名の通り、下仁田から先、小海線の羽黒下駅まで延伸の予定でしたが、急峻な地形に阻まれ、鉄道での延伸を諦め、小海線中込までバスで結び、1970年まで運行していました。現在は、下仁田バスのワゴン車で市ノ萱までの運行になっています。
藤本様
速攻で、最近の下仁田駅の様子をありがとうございます。山は変わっていませんが、40年以上経つと駅前の建物には変化がありますね。
右の貨物ヤードには砂利があり、有蓋貨車がつながれています。貨物輸送はかなり前に廃止されたと聞いていましたが、休車で留置されているのでしょうか。
停車中の電車は旧107系の様ですが、上信電鉄にしっくり馴染んでいるようで何よりです。
添付の写真は昭和57年の訪問時に、その前年に新造された250形です。
下仁田行の「南蛇井」到着前の運賃表示ですが、「Nanjyai」の「y」は不要と思います。
南蛇井駅なら徒歩2分に昔のコンビニがあり、そこで販売されている「しそ巻」は絶品です。初めて買ったとき、帰りの電車の車内で、土産の分まで全部食べてしまいました。
「南蛇井」は珍名で有名な駅ですね。昔この地域に蛇の井戸が2つあって、南の井戸を南蛇井と言ったことから地名が付けられたようです。
「南蛇井 しそ巻」で調べたら、地元のコンビニ兼駄菓子屋兼何でも屋の「なんじゃい、こりゃ」のすごい店舗でした。土産の分まで藤本さんが召し上がれたそうですから、よっぽど美味しかったのでしょう。
トップ写真のクハ1301+デハ252は、旧JR東日本107系のクモハ700形+クハ750形、5編成入線後も健在です。
2018年9月9日、下仁田、クハ1301です。
2018年9月9日、吉井駅、デハ252+クハ1301です。
藤本様
デハ252+クハ1301が元気に活躍とのこと、同じコンビで長期間の活躍を嬉しく思います。私が訪ねた2007年当時は前も後も側面も原色の広告で飾られていましたが、スッキリしたクリーム地に明るい青のラインは軽快感を感じされます。生え抜きの車両がいつまでも長く走り続けて欲しいものですね。
添付はデハ252 高崎です。
1999年から2002年まで4年間、高崎に単身赴任していましたので、休日ともなると上信、上毛、わたらせ、秩父などを度々訪ねていました。電車こそ変われ、下仁田駅の光景は殆ど変わっていませんね。懐かしいです。26年前はデジカメのハシリの時代で、まだフィルムカメラで撮っていました。平成11年7月24日の下仁田駅のカットです。奥の貨車はテム10でテム9、テム8の3両が下仁田に留置されていました。テム1形は南高崎駅にあった秩父セメントからの製品搬出用に10両新製されたものです。サファリ模様の電車はクモハ153,手前はデハ201です。
西村様
高崎で一時勤務されていたのですね。私も同じころ1997年から2001年まで、会社の都合で埼玉の久喜工場で働いていましたが、大宮から北の埼玉は北関東と呼ぶに相応しい風景が広がっていました。時間的に自宅から通える距離だったので東北本線を利用していましたが、もしも単身赴任をしていたら、間違いなく西村さんの行動になっていたでしょうね。
添付の写真は東武のりょうもう号。1990年6月赤城駅です。
ついでに、同日撮影した下仁田駅前にあった奇妙な看板です。「徘徊」「タンを吐く」「奇声」「威嚇」などとあり、この地はどういう人達が暮らしているのだろうと別世界に来たような印象を受けたものです。
西村様
奇妙な立て札ですね。とても初めての人や旅行者に気を配っているとは思えませんね。
想像ですが、下仁田駅前は、付近の若者たちが車やバイクで集結する「たまり場」の様相だったのではないでしょうか?彼ら彼女らは多数の乗客や送迎者に対してパフォーマンスを展開することが、一種のステータスシンボルでした。奇声や威嚇などはその現れでしょう。
やがて下仁田の乗客が少なくなり、警察の見回りも強化されて、たまり場はロードサイドのSCかコンビニに移行し、駅前には平和が戻って、立て札だけが残っている・・・当たらずとも遠からずの感想でした。
上信電鉄には、2012年の8月に行ってました。その後、JR東の107系が入り、在来車はどうなったことでしょうか。三岐鉄道もまもなく西武由来の在来車はJR東海の211系が入り一掃されそうです。写真は高崎
ブギウギさんも上信電鉄に足を運ばれたのですね。
上信電鉄は現在JRの107系が多数入線して勢力図が変わっているようです。107系→700形が最大の10両、次いで元西武の500形が4両、生え抜き車は4形式9両でトータル23両のラインアップです。生え抜き車のうち7両は製造後40年を経過し、次の段階で去就が気になるところですね。
私も輪に加わります。遠い割には、上信へは3回行きましたよ。終点までも乗りましたが、毎回行ったのが、高崎を出てすぐの烏川の鉄橋でした。佐野橋という木橋が並行していて、ここから鉄橋を行く編成が撮れます。ちょうど夕方になると、背後に陽が落ちて、いい感じの写真になります。気になる全面広告も目立ちません。いまは「佐野のわたし」駅が近くにできて便利になりましたが、当時は駅はなく、撮影後は真っ暗な新幹線下を歩いて南高崎まで行き、ひと駅だけ乗って、高崎駅まで出たものでした。
総本家様
上毛の山並みに入る夕陽と電車のコラボ、素敵ですね。私も昭和57年の訪問時に烏川橋梁で撮影をしました。電車に乗って「ああ、ここで写真を撮りたい」と衝動をおさえきれない景観でした。
上信電鉄2の続編に、皆さんにご覧いただく予定の写真、先に貼り付けます。250形と200形の連結車両です。
続編は電気機関車デキが登場します。