中津を出ると、淀川とほぼ平行しながら、南西方向に向かいます。付近は、大小の工場・倉庫が建ち並ぶ地域となり、ある意味、大阪らしい光景が車窓に続きます。
▲十三バイパスの陸橋に沿って天六方面に向かう。
中津を出ると、淀川とほぼ平行しながら、南西方向に向かいます。付近は、大小の工場・倉庫が建ち並ぶ地域となり、ある意味、大阪らしい光景が車窓に続きます。
▲十三バイパスの陸橋に沿って天六方面に向かう。
(2) 中津付近
天神橋筋六丁目を出た北大阪線の電車は、中津方面へ向かいます。すぐに「本庄中通」の停留場で、戦災を受けなかった古い街並みが続き、並びには老舗のツバメ屋模型店があったことも思い出です。つぎの「南浜」では、東海道本線をくぐり、名称は、むかし西成郡南浜村だったことに由来、つぎの「北野」も、かつての西成郡北野村に由来、ここに北野中学があり、戦前に十三駅西に移転し、戦後、北野高校となっています(以下、昭和50(1975)年5月)。▲そして、阪急の複々線をくぐり、北大阪線唯一の専用軌道を行くと、阪急と国道176号に挟 まれて、梅田貨物駅・梅田貨物線を越す、乗り越し橋脇の「中津」に到着する。
(1) 天神橋筋六丁目
“煙”の話が続きましたので、目先を変えて。路面電車シリーズに入ります。先に“アレ”関連で阪神軌道線(阪国)の甲子園線を紹介しました。阪神軌道線には、ほかに国道線、北大阪線がありましたが、昭和50年に全廃され、廃止から50年近くが経過しました。今回は、天神橋筋六丁目~野田の北大阪線を何回か紹介します。目立つことがなかった阪神軌道線にあって、北大阪線は、阪急中津駅の近くを並行していて、阪急電車の窓からも見ることができました。小さい頃、阪急電車に乗って、梅田に着く直前に、チラッと単行の電車が見え、しかも阪急以上に地味な色の電車で、“なんやろ”の思いで見ていたことを思い出します。▲天神橋筋六丁目から発車していた北大阪線。阪神本線の野田までの4.3kmの路線で、梅田の外縁を半周するようにして連絡していた。
1週間ほど旅行をしていて投稿・チェックが出来なかった。
さて今回は私の人生最大のショックを受けた大事故の記事を紹介する。
三河島事故、若い会員でもこの事故はご存じだろう。
昭和37年5月3日21時37分、国鉄常磐線三河島駅構内で田端発水戸行下り貨物287レ(D51364)が出発信号を見落とし安全側線に入り、停まりきれずに脱線して機関車と次位のタキ50044が下り本線上に飛び出した。これに三河島駅を4分延で出発した上野発取手行き2117Hレがタキに衝突、先頭車クモハ60005と次位のクハ79396が脱線して上り本線上に飛び出した。さらに7分後、上野行き上り2000Hレが進入し、線路上を歩いて避難中の乗客をはねたうえ、上り本線上の2117Hレ先頭車と衝突した。これによりクモハ60005とクハ79396は粉砕され、上りの2000Hレも先頭車クハニ67007が原形を留めないほど粉砕され、二両目のモハ72549と三両目のサハ17301は築堤下まで転落、四両目も脱線した。
死者160名、負傷者296名
事件や事故も続くと飽きてくるらしい。
反応もイマイチだが、読んでは頂いているようで気を取り直している。
今回は1961年のダイヤ改正から年末へと進める。
この年は「36.10」で新DC特急が走り出す年である。しかし・・・
1900生さん、この事故を覚えておられますか?
鉄道資料を片付けていると東海道線電化完成の葉書と煙草が出てきた。米原京都間の電化で東海道線全線が1956(昭和31年11月19日に電化されたときの記念である。その日を始めに特急つばめと特急はとは列車全体が淡緑5号に塗装されEF58を先頭に大阪東京間を7時間30分で運行を始めた。米原京都間の客車列車は80系湘南電車に替わりみかん畑のない近江路を走りだした。
葉書は配布されたもので裏に大阪駅31・11・19日付と大阪城と客車特急の絵の丸い記念スタンプが押してある。きっとその日、坊主頭の中学生だった私はスタートカメラ片手に今里大阪駅間担当の1600型市電に乗って大阪駅へ駆け付けたのだろう。
煙草の空き箱は親爺が買ってきてくれたのだろう。漫画家横山隆一氏が描く
フクちゃんが展望車に乗っている。煙草のピースは火を着ける前でも独特の良い香りがした両切り煙草で、一時期愛用していた。ピー缶という缶入りもあって懐かしい。この空き箱はヤフオクで即決280円で値がついている。
初めにお断りしておくが、子供の頃のスクラップなので日付を記入していないものがある。そのためいつの記事か分からないものには『●年●月・・』と記入しているのでお分かりの方はコメントでお教えいただきたい。また、事件事故に関係する方、目撃者、解説できる方のコメントをお待ちしている。
では、最初は昭和35年、1960年から始めよう。
この頃からオリンピックへの建設工事が活発になってきたのに伴い、全国でダンプカーやトラックとの踏切事故が多発しだした事を念頭に置いて見てほしい。
いよいよ開通日が近づきます。
それまでにはいろんな出来事があり、それらを全て掲載していませんが新線開通時にはどこも同じ事があっただろうと思われます。
今回、河 昭一郎様からその時期の貴重な写真を頂きましたので、まずそれからご覧頂きます。
スクラップを見る楽しみの一つに、主題ではない記事がちょっと残っていることがある。そこにおもしろい記事が載っていることがある。たとえば相撲の取り組みとか、広告とか、事件・事故などである。一度探してみてはいかがだろう。
さて、新幹線開業が近づくに伴い習熟運転が佳境に入ると、予想通りの問題が頻発する。
いよいよ建設も最終段階に入り、土木工事以外の細かいことが決まり始めた。しかしこの頃まで愛称が決まっていなかったとは驚きである。
改めてスクラップを見て、まず気の付くことは文字が小さい!というのに驚く。
昔の新聞はこんなにも小さな字で書いていたのか、と感心する。それと細かいことまで書いてある。後に投稿する新幹線最初の人身事故でも補導された中学生について名前こそ出てないが親の職業まで報道している。こんな事を考えながら古い新聞を見るのもスクラップのおもしろさだ。
一体いつ頃から鉄道関連記事のスクラップを始めたのか、その1ページ目は昭和35年8月18日「山陽線で貨車脱線転覆」だった。尾道付近の本線上を走行中のD52牽引の幡生発、大阪中央市場行き鮮魚列車が置き石のために脱線転覆した事故の記事が第1ページを飾っていた。この事故は中学二年生の犯行で、後に岡鉄局は66,460,540円を請求している。
これらを一挙に公開は大変なので、事件・事故、開通、私鉄、その他などの話題毎にまとめてゆっくりと公開したい。
まずは「新幹線開通」に関する記事から。
ここでお断りしておくが、当時の新聞記事をスキャンするため、今日ではコンプライアンス的に問題があると思われる表現もあるが、気にしないで記載するのでご了解いただきたい。
記事に関して一切の個人的感想は記載しないので、読者が勝手気ままに感想をのべ合ってください。
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近々引っ越しの予定があるので身辺の整理をしています。
ところが出てきたのは中学時代から貯めていた新聞の切り抜き記事です。
スクラップブックに整理されたものもありますが、切り抜いたままのものもあり、もう酸化してボロボロのものもありあります。そこで一念発起してスキャンを始めました。なにせ60年以上前のものですからスキャナーに広げるだけで粉々になるものがあります。
そんな中からいくつかのシリーズに分けて公開しようと思います。
最初は思い出深い新幹線に関する記事から始めます。
お断りしておきますがスキャナーベッドがA4サイズのため見切れてしまう場合があります。この時は皆様の想像の翼を広げて切れた部分を想像してください。
スクラップは全て破棄しますが、必用と思われたら差し上げますのでご一報ください。
では、予告編をご覧下さい。
説明文は入れませんので各自ご議論ください。
何気に写した駅の風景
大阪通信員さんは、車両以外も、多くの写真を撮っておられます。否、車両以外の日常的な風景にこそ、通信員さんの鋭い感性が発揮されているように思えます。スライドを点検した際にも、「鉄道の施設」として、分類された袋があり、意識して撮られていたことが分かります。駅や撮影地で、何気に通信員さんが撮った、そんなカットを見ていただきます。▲あったなぁ、こんな洗面所が‥。夜行列車の発着する主要駅では、朝に列車が到着すると、われ先に顔を洗ったものだった。私自身は、蒸機を写していた時代、一時間でも機関区に居ようものなら、顔の周辺が汚れでムズがゆくなり、ホームや駅舎にあった洗面所へ駆け込んだものだった。写真は大阪駅で撮られたが、洗面所付近を黒くツブし、対向の471系急行を際立たせたのも、非凡な才能を感じる。