北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part9 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上、ノグリキに着く

ユジノサハリンスク(豊原)を定刻の22:42に出発した№1列車は、戦前の北緯50度の日ソ国境線を越えて。612.2㌔先のノグリキに向けてゆっくりと北上していきます。発車後はしばらく皆さんと一緒の部屋にいましたが睡魔もやってきて部屋に戻って爆睡です。
ノグリキから最北端のオハまでは実線で引いていますが、この路線は、1953年に全通したオハ─ノグリキ狭軌鉄道線(総延長233㌔、軌間750mm)ですが、主力の貨物がトラック輸送にシフトしたために2007年に廃止されています。

【 樺太東線 】
戦前の日本統治下時代の鉄道路線図です。樺太東線は、1906年(明治39年)12月1日に軍事輸送用として楠渓町(大泊)~豊原の43.3㌔が600㎜ゲージで敷設開業しました。1910年(明治43年)11月3日 には1,067㎜に改軌されて北へと延伸が徐々に進められました。1941年(昭和16年)11月15日には大泊~上敷居の414.4㌔が延伸開業しています。
北緯50度の日ソ国境線に向けての軌道は1943年(昭和18年)11
月16日に上敷居気屯が延伸開業、1944年(昭和19年)8月15日に気屯古屯の10.6㌔が 延伸開業しましたが、国境線直前に位置したために軍専用路線の軍事機密とされました。そのため東亜交通公社発行時刻表には掲載されず、島内発着の客貨のみが取り扱われていました。
全島全線が昭和20年8月の敗戦によりソ連に接収された後、1979年にノグリキまで延伸されて653.5㌔が全通しています。

▲ 上は昭和19年10月現在の樺太鉄道の時刻表です。赤線で囲みましたのが、今回の豊原~ノグリキの前身となった大泊港~敷香の330.5㌔を走った列車のダイヤです。
18:45発の翌日7:26着ですので12時間41分の所要時間になります。表定速度は26.06km/hと貨物列車以下のスピードです。夜間は通過する駅が多い快速列車ですのにこれほど遅いとは乗っていてもじれったかったでしょうね。

▲ ユジノサハリンスクノグリキに運行されています夜行寝台列車のダイヤですが、上はネットの公式HPから見たダイヤ、下はノグリキ駅待合室に掲載されていた時刻表です。停車駅に大きな違いがありますのでどちらが本当なのか分りません。
612.5㌔を11時間43分で走りますので、表定速度は52.28km/hです。日本統治下時代とは格段に違うスピードアップです。

第5目 7月13日 その1

8:01 定刻にティモフスクに到着。15分の停車です。この辺りでは大きな町のようでたくさんの乗客が降りていかれました。

◀ 客室乗務員のおばちゃまです。写真を撮るのは注意されるかと思いましたが、全くそぶりはなく一緒に記念写真も密着OKで受けてくださりました。▲ 8:16 これも定刻の発車です。
駅前には商店もありませんでしたが林の向こうに街並みが広がっているようです

しばらくすると車窓は木々に包まれました。西線のように海は見えず林間を行きます。

10:25 2時間前は晴天だったのにノグリキ到着前から雨が降ってきました。

▲ 最北端の駅、ノグリキに定刻で到着です。

▲ 下車客の皆さんが降りていかれますが、タクシーと思える車はありません。バスも系統番号の表示はなくどうして良いのかすら分かりません。

▲ 10:31 駅舎にも戻ってみますと降りたお客で満席でした。今から発車する列車などありません。皆さん、出迎えが来るのを待っているようです。

▲ 10:47 駅前のショッピング街です。復路で買い物に行けるとチェックです。

▲ 11:11 駅構内で撮ると公安官からチェックが入るので避けたいと隊長は申されます。北方向に踏切があるのでここで撮ることにしました。来たのは我々の列車を牽引したディーゼル機関車ではなく先行する11両編成の普通列車を牽引してきたТГ16 形ディーゼル機関車16-081号機でした。

次に目指すのは冒頭の地図でご紹介した、オハ─ノグリキ狭軌鉄道線の路線跡です。
▲ トボトボとトゥイミ川鉄橋に向かって荒野の中の国道を歩きます。

▲ 左の道路標識は目的地までの距離です。オハまでは226㌔、かつての鉄道とほぼ一致します。右は走行できる車の軸重制限と重量制限ですが、3つもあるとどれを優先するのか意味がよく分かりません。

▼ 撮影地 51.816251, 143.144070

▲ 11:41 歩くこと30分、ようやくたどり着いたトゥイミ川鉄橋です。とても750㎜ゲージの鉄道鉄橋とは思えない頑丈なトラス橋です。将来の1,067㎜への改軌も考慮しての設計だったのか、また重量貨物列車が通過するためのものだったのか。

▲ レールは撤去されていましたが朽ちた枕木は残っていました。

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▲ まだ鉄路が息をしていた頃の地図です。軽便鉄道のノグリキ駅は我々が降りた駅とは少し離れた場所にあったようです。ただ手前でヤードに入る軌道はあったようです。貨物はここで積み替えられたのでしょうね。

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▲ ユジノサハリンスク~ノグリキの鉄道接続だけでなく港にも路線は伸びていたようです。

【 オハ─ノグリキ狭軌鉄道線 】
Узкоколейная железная дорога Оха — Ноглики )

最北端の町オハとノグリキを結ぶために1925年に運行開始、1953年全通しました。軌間はボスニアゲージの750㎜、路線長は233㌔です。
石油採掘の原油や木材輸送で貢献しましたが道路が整備されると次第にトラック輸送にシフトが進み、2006年12月に廃線となりました。
▲ 1953年製の№453号機。

▲ 最盛期のコンテナ貨物列車、かなりの輸送が行われていたと思われます。

11:50 今日は夜に再び寝台列車に乗車してユジノサハリンスクへ戻ります。時間はたっぷりとありますが、鉄道関係で見て回る所はあまりありません。地球の歩き方で掲載されている市立の郷土博物館にでも行くかとなりました。距離は約4.2㌔、またトボトボと向かいました。

▲ 12:33 街中にあったロシア正教会、輝いていました。

▲ 12:54 今日は朝から何も食べていません。お腹が空いたと街中を探すと、スーパーに併設したレストランがありました。ロシア料理はなく雑多のメニューでしたので各自好きなものを注文しました。私はどんなものか食べてみるかとお寿司を注文しましたが意外とまともなものが出てきてびっくりです。寿司ネタはいずれもサハリンで手に入りそうなものですね。美味しくいただきました。

▲ 14:16 再び歩き始めて約20分で市立郷土博物館に到着です。地球の歩き方には「切符は建物の奥の部屋で売られている。閉まっているように見えても開館時間であればたぶん開いている。奥まで進んで人を探そう。」と書いてある通り奥まで行って声をかけると担当者が出てこられて切符を売ってくれて、展示室のドアのカギを開けました。中は古い衣服や生活用品、狩猟道具等々が展示してあり、ロシア語ですが説明してくださいます。約30分間の見学でした。

▲ 14:50 駅に向かうバスの始発駅になっていましたので乗って駅へと戻りました。このバスも出入口はお見合いシートになっています。 Part10へ続く

北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part9 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上、ノグリキに着く」への1件のフィードバック

  1. こんにちは
    これから行こうとしているところで非常に参考になります ところで ポロナイスク 敷香が何故か敷居になってますよ
    気象通報でも出てくる有名地なんですがね

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