いとしのDD51 -3-

優等列車を牽引する

DD51が最も似合っていたのは、やはり長編成の急行・特急列車を牽く姿でしょう。本欄でも、米手さん、準特急さんから、昭和40年代初頭、東北本線に投入直後に特急を牽く貴重な写真が寄せられています。以来、つい最近の「北斗星」や「カシオペア」まで、50年に渡って優等列車を牽引していました。同一形式が50年も同じ任に就いていたのは、DD51以外には見当たらないでしょう。今回は、昭和40年代、各地で急行・特急を牽いたDD51にスポットを当てました。
奥羽本線白沢付近を行くDD51牽引「日本海」。昭和43年10月改正で、日本海縦貫線に待望の寝台特急列車が新設され、列車名は、急行「日本海」からスライド命名された。急行は「きたぐに」に変更されて残存した。あたかも今年はヨンサントウ改正から50年、特急が各地で新設・増発されたことに当時のダイヤ改正のパワーを感じる(昭和44年9月)。

日本海縦貫線を行く急行「きたぐに」2題、羽越本線今川~桑川(上)と奥羽本線陣場~津軽湯の沢を行く。前記のように急行「日本海」は、昭和43年10月改正で、列車名を新設の寝台特急に召し上げられたため、(二代目)「きたぐに」と改称された。均一周遊券で北海道へ行く場合の、定番列車であり、日本海縦貫線での区間利用も多かった。
筑豊本線の冷水峠を越える急行「天草」。長らく京都~熊本の急行列車として走っていたが、昭和36年10月改正からは、博多を通らない筑豊本線経由となった。当時は、門司区のC57が通しで九州線内を牽引したが、昭和40年代になると鳥栖区のDD51牽引に替わった。ただ急勾配の冷水峠では、さしものDD51単機で越えることはできず、直方~鳥栖は直方区のD60が後押しをした(昭和44年3月)。

ところで、DD51の計画の際、最初に構想されていたのはDF50と同じ箱形のスタイルだったと言う。形式図までできたところで、凸型へ変更されたと言う。これは、運転室が一ヵ所のため製作費が安い、機関の全高が低く、凸型であっても視界を遮ることはない、保守・点検のやりやすさなど、合理的な理由で決まったと言う。ほかにも、アメリカのDLが、以前の箱形からセンターキャブ型に移りつつあることも影響したと言う。たしかに当初は、特急列車を凸型機関車が牽くなど、大変な違和感があったものだが、慣れてしまえば当たり前の姿になった。

雪の羽越本線を行く「日本海」、羽越本線新津~秋田は東新潟区のDD51、奥羽本線秋田~青森は秋田区のDD51が牽いていた(昭和46年3月)。

鹿児島本線上伊集院付近を行く「あかつき」、鹿児島本線完全電化の直前で、熊本~西鹿児島をDD51が牽引していた。20系客車はナハネフ23が先頭、架線も張られており、鹿児島本線のDD51の歴史もまもなく終わる(昭和45年8月)。

 いとしのDD51 -3-」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    「日本海」や「天草」の原色写真を拝見させて頂くとやはり心が躍ります。今となっては貴重な写真ばかりです。当時の小生は石こそ投げなかったものの、カメラも向けずに無視していましたから、ある種後悔の念からも貴重だと思う感情が高ぶるのかもしれません。
    理由は異なるものの、昭和40年代半ばに勤め人になった小生ですが、直後にSLが消えたことに加え、それからの十数年ほどは仕事や家庭で趣味活動、特に外出を伴う写真は空白期間になってしまいました。その間にEF58・キハ10系DC・10系客車・80系ECなどの国鉄を代表する車両達が消えていきました。仕方のないこととはいえ、それだけに懐かしさが募るのだろうと思っています。続編を期待したいですね。

  2. 1900生様
    いつもコメントをいただき、ありがとうございます。お書きのように、記録対象としての車両も、時代とともに変わりましたが、やはりわれわれの世代、蒸機の全廃は、大きな転換期でしたね。そこで止めた人もいますし、さらに別の対象を見つけて継続した人もいました。私は、蒸機以降は、仕事・家庭もあって、適度な距離を置いて記録してきたつもりです。“細く長く”がモットーだと思います。

  3. 総本家青信号特派員様
    急行「天草」は後補機のD60が懸命にプッシュしている峠の雰囲気がよく出ていますね。私の「蒸機の時代」に掲載していただいた「天草」は雨の中で編成が撮れず、それでもDD51、D60それぞれ2枚に分けて掲載されました。今回は優等列車ということですが、伊集院駅で上下交換する急行列車牽引のDD51がありました。1967年8月31日の撮影です。左は35列車東京発鹿児島行き「霧島」DD5139の到着と右は列車交換待ちの3202列車西鹿児島発東京行き夏季臨時(7/2~9/5運行)急行「桜島」のDD5141です。C60、C61を撮りに来たのでこれもついでの写真ですが、DD51の若き日の姿ですね。右奥は鹿児島交通の105です。

    • 準特急様
      お言葉、ありがとうございます。昭和42年のDD51優等列車の交換を拝見しました。私も昭和42年春に初めて九州へ行きましたが、機関区巡りに徹したため、駅撮りはほんんどありません。しかも、伊集院は、夜行で通過する駅で、昼間の駅は貴重ですね。それと、右端の鹿児島交通のDCも気になります。鹿児島交通と言えば、赤に青帯という、暑苦しい塗色でしたが、こんな国鉄DCと同じ塗色もあったのですね。いろいろな情報が読み取れる写真、ありがとうございます。

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