【95397】 いとしのDD51 -2-

完全電化直前の東北本線

試作機DD511の実績を活かして、第二次車として2~4号が昭和38年に製造され、車体形状はやや変わりました。1号機とともに盛岡区に配属され、東北本線の旅客・貨物を牽きました。初期故障はあったものの致命的な欠陥もなく、さらに第三次車5~19号、第四次車20~27と製造が続き、昭和41年には重連総括制御の500番台501~520が製造されるなど、DD51は、量産に次ぐ量産に入っていきます。
43-10改正直前の東北本線奥中山駅、すでに架線が張り巡らされ、電機の試運転も行なわれていたが、主役はDD51の重連だった。61レ DD51 565〔盛〕+DD51 518〔盛〕牽引、最後部にD51912〔尻〕が付いていた(昭和43年8月)。


DD51の初期車両が出揃った昭和42年の配置表を見ると、DD51は早くも100両を突破していた。おもな配置は、釧路、盛岡、秋田、東新潟、吹田第一、鳥栖と、当初から構想されていた本線格の主要区に配置されている。その中で、21両配置と最も多かったのが盛岡区だった。まだ東北本線の盛岡以北が非電化の時代、東北本線はもっとも輸送が逼迫した路線で、DD51の導入は待望のものだった。
私は、非電化の東北本線は、電化完成直前の昭和43年8月、竜ヶ森の狂化合宿の前後2日のみしか実見していない。直前だけに、電蒸運転などの移行期ならではの運転も見られたが、東北本線最後のDD51を見ることができた。
御堂にて。青森発上野行き急行「第一みちのく」が通過して行く。常磐線経由で、青森5時45分発の昼行急行のため、東北本線には珍しい座席車のみの編成だが、食堂車はしっかり連結されている。DD51 517〔盛〕+DD51 561〔盛〕

なお塗装については、2号以降、オレンジ(朱色4号)に白線の原色車の塗装になり、1号機も、これに準じて塗り替えられた。この色を提唱したのは、当時の技師長、島秀雄氏だったと言う。氏が見ていたイギリスの鉄道誌「レイルウェイガゼット」の表紙のオレンジ色の機関車がいいとなり、2次車から採用された。凸型の上部は、運転台から目に入るので、グレー(ねずみ色1号)として、その境の白線を入れた。これが、その後の国鉄のDLの標準色となり、DD13、DF50などにも及んだ。360レ DD51807〔盛〕+DD51+ED75 124 DLEL三重連が雨の奥中山を行く。800番台は、蒸気発生装置を省略した貨物用。

 いとしのDD51 -2-” への24件のコメント

  1. 改めて探してみると、私もDD51には価値を認めていなかったと見えて“撮った”と言うよりは“写っていた”という状態でした。従って意図的な撮影は皆無です。奥中山駅DD514 昭和38年8月の撮影です。

    • 失礼しました!上記の機番は不明です。
      DD514は次の写真です。後補機はD51757です。奥中山-御堂下り各停青森行

    • 米手さま
      東北本線のDD51の初期時代、貴重な写真の数々、ありがとうございます。DD514は下の写真とのことですが、上の写真も、よく見ると白線が前部で上がらず、一直線になっています。これは、DD51の3次車の5~19号の特徴です。3次車は量産車のトップグループですから、たいへん貴重な車両です。

  2. 総本家青信号特派員様&米手作市様
    総本家さん東北本線の架線の無い所は2年連続で浅虫~野内間の旧線部分しか行っておりません。私の時は東北での狂化合宿はあったのかなかったの記憶がありません。竜ケ森や五能線であったとしたらハチロクを敬遠して行かなかったのかもしれません。その浅虫旧線の「ゆうづる」に続く第3十和田号のDD51です。撮影は昭和41年9月1日です。単機に見えますが、DD51516+DD51517の重連です。堂々の編成で寝台車、食堂車を連ねています。米手さん小さくてよくわからないですが食堂車は何でしょうかね。この日は第1十和田はDD51+PC+C6116、第2十和田はDD51+PC+C6133、第4十和田はDD513+PC+C60かC61で記録し忘れました。本務機がDD51でがっかりしましたが、臨時急行や寝台専用急行は蒸機牽引で残っていました。

    • 準特急様、
      この当時はオシ17が増殖して、非冷房食堂車は東北・北海道へ押しやられていました。同じ頃に撮った「十和田」の食堂車はスシ482012盛アオでした。やがて遅ればせながら東北へも冷房食堂車が入り出し、大宮工場で解体待ちのスシ48群を撮影しています。

    • 準特急様
      夏の狂化合宿の行先を「青信号」で調べますと、昭和40、41年の2年間とも、五能線で行われていました。私がまだ入会する前ですが、撮られた写真も合宿の前後に撮られたものではないでしょうか。浅虫~野内の旧線は、そのずっと後に、私が行った時は新線に切り替え済みでしたが、トンネル跡を探索したことがあります。東北本線は、電化直前でも、急行列車は蒸機牽引が多く、なかなかDL化が促進出来なかった事情がありましたね。

  3.  「よん・さん・とう」以前に撮影された貴重なDD51の姿を拝見させていただき、眼福至極にございます。米手様のDD51 4をよく見ると、本家青信号特派員様の解説の通りボンネット側面の白線が前面まで一直線に回り込んでいる様子が良くわかります。19号機までの特徴なんですね。
     はて、こんなDD51は自分もどこかで撮った覚えが…とネガを探してみれば、鉄道写真を撮り始めた頃に友人と出かけた吹田で7号機を写していました。蒸機一辺倒だった小生も最初の頃は見るもの全てが珍しく、後に目の敵にしたDD51も分け隔てなく撮っていたようです。恥ずかしながらDD51を調べたことがなく、遅まきながら趣味誌を広げてみると、初期型はずいぶん相違点があったことを知らされました。長い間DD51を袖にしてきたバチが当たったのかもしれませんね。ボンネット正面扉の形状、ステップ脇の手すりの形状といった外観から、機関出力の違いを初めて知りました。米手様の写真を見るまでは調べる気も起らず、長年知らないままで過ごしておりました。別に知ったからと言って日常生活に役に立つわけではありませんが、また一つ知識が増えたと喜んでおります。「人間死ぬまで勉強や」と言われますが、まさにその通り。「デジ青」に出会ってからは知らなかったこと、気付かなかったことの多くが解決し、たいへん感謝しております。
     この写真は長年「なんか変やなあ」と感じておりましたが、ボンネット正面の白線の位置が引っ掛かっていたようです。鉄道写真を撮り始めて間もない頃の下手な写真ですが、お目汚し覚悟でアップします。
    昭和46年1月 吹田駅 

  4. 紫の1863様
    貴殿のコメントを拝見していて、私がDD51と初対面したのもやはり吹田であったことを思い出しました。さっそくネガを探しました。ネガはすっかりビネーガー臭の八ッ橋状態でしたが、何とかスキャンできました。中学3年生の時に買ってもらったハーフカメラ(オリンパスPEN-D)で下手な写真を撮り始めていた昭和39~40年頃です。当時吹田ヤードではD52,デフなしD51,9600が活躍しており、本線ではEF10,EF15,EH10が貨物を牽いていました。千里丘、岸辺、吹田駅はホームから吹田ヤードの機関車が撮れる恰好の場所で、京都の中学生にとってはちょっとした遠出感もあって、友達同士で誘いあって行ったものです。この時は多分D52を撮りたくて行ったように思いますが、D52にはなかなか会えず、代わりにDD51が登場し、DD13しか見たことが無かった凸型の大型DLに驚きました。DD518号機です。昭和39年4月新製で吹田に配置され、若くして21歳で昭和60年4月に廃車になるまで一生を吹田で過ごしたDD51ではないかと思います。撮影場所はうしろがアサヒビール吹田工場のようですから吹田駅だと思います。DD51の次位は薄緑色のヨ、そのうしろはオレンジ色の帯を巻いたワキ?のようです。その横をD52354が通過してゆきました。貴殿の写真のク5000も懐かしいですね。特派員氏も言われるように、DD51も終焉を迎えようとしていることにいささかショックも受けております。記憶を呼び覚まさせて頂きありがとうございました。(写真2枚を添付しようとしましたがうまくゆかないので1枚だけです)

    • 西村様、
      写真を二枚入れるなら、続いて「返信」をクリックして写真を入れれば可能です。同じ方法で何枚でも入れられるはずです。

  5. 西村雅幸様
     D52とDD51が並ぶ写真は、初めて見ました。ありがとうございます。城東貨物線にD52がいた頃には間に合わず、「あと5年早く生まれていたなら…」と思うファンの気持ちがよくわかります。小生が訪問した頃には電気機関車も随分メンバーが変わり、EH10・EF60・65・66が吹田二区にずらりと並んでいました。EF10やEF15といったデッキ付きの電気機関車を見たかったなあ。
     吹田と言えば「アサヒビール」、こんな写真を撮っていました。D51 319が引く城東貨物線の列車です。背景には「アサヒビール」の工場が見えます。

    • 同じ日にこんな列車も撮っていました。ど真ん中に架線柱が入る最悪のアングルですが、フイルムを入れ替えている最中に通過したもので…。苦しい言い訳ですね。DD13が牽引する24軸の大物車、シキ400です。DD51とは関係ありませんが、初めてDD51に出会った日は珍しい列車を見ることができました。

  6. 紫の1863さま
    吹田区の初期DD51や、アサヒビール前の懐かしい写真の数々、ありがとうございます。DD51の量産車が出始めた昭和40年の車両配置配置表を見ますと、27両のDD51があり、そのうち8両が吹田一区に配置されており、吹田はDD51初期車の宝庫だったのですね。都市部を走る北方貨物線、城東貨物線の無煙化が急がれていたのでしょうか。私も吹田一区でDD51初期車の形式写真を撮ったことがあります。その時は、機関区に入ったはずなのに、歩いているうちに、いつの間にか吹田工場の中に入ってしまいました。工場の正門から出ようとすると、守衛室から呼び止められ、無断侵入でえらく怒られたことがありました。当日は日曜日で工場が休みで、人の出入りがなく、すぐ分かったのでしょう。高校時代の思い出でした。

  7. 西村様
    吹田の思い出、聞かせていただきました。ありがとうございます。吹田、という場所、京都の人間にとっては、小旅行の気分もあり、憧れの地でしたね。「アサヒビール」と大書きした裏手の工場も忘れられませんが、私が吹田区へ行く時は、岸辺で下車していました。さて西村様に見ていただきたく、糸崎機関区で写した、三菱製のDD51530を貼りました。糸崎区へ行くと、三菱で新製されたばかりの車両が、配置区へ回送までの間、留置されており、それを見るのも楽しみでした。この530号機は、車歴表を見ると、1966.8.18新製と記されており、その直後の撮影でした。ピカピカの車体が夏日にまぶしかったことを覚えています。釧路区の配置で、旋回窓も装備していました。キャブ下を見ると、「国鉄の皆様へ」と書かれた、三菱車両部の注意書きの木札がありました。

  8. DD51530の写真を2点貼ろうとしたのですが、うまく行きませんので、もう1点のみ貼り付けます。糸崎区の扇形線で回送を待つ同機です。

    • 総本家特派員殿
      糸崎での貴重な写真をありがとうございます。昭和41年8月夏休みに糸崎機関区を訪問されているわけですが、昭和41年といえば高校2年生のときですね。私は地学部でハンマー片手に化石や鉱物探しで歩き回っていた時期ですが、貴君は写真部でしたね。さてDD51530は製番1399、この同時期にはDD54やED75が製造されていました。DD51の背景にある背の高い工場や煙突は当時の浅野セメント糸崎工場ですが、昨年3月に工場は閉鎖されました。郷土史研究グループのメンバーに父が糸崎機関区勤務だったり、糸崎鉄道学校の卒業生だという人が何人かいて、当時の記念写真などをお持ちの方がおられます。そんな古い写真を持参して機関区跡地で機関区の痕跡を探そうという話になっていますが、まだ実現していません。それにしてもいつもながらデジ青では話がどんどん広がってゆくのがおもしろいナアと楽しませてもらっています。

      • 西村様
        コメント、ありがとうございます。糸崎機関区の裏手は、すぐ海で、こんな機関区も珍しいと思いました。背後の工場も覚えています。浅野セメントの工場なのですね。この時代は、よく糸崎機関区を訪れていました。いま取り組んでおられる郷土史研究の何かお役に立つことがあれば、お聞かせください。はい、高校の時はカメラ部にいました。ほかの高校は写真部なのですが、なぜか本校はカメラ部を名乗り、別にカメラの趣味はないのにと思いながら入部しました。この年はフィルム現像を覚えたものの、真夏なのに原液のまま高温現像をして、荒れ荒れになったり、仕上げも雑で、今や酢酸臭のビネガー状態で、隔離されたままですが、懐かしさでフィルムを出してみました。

        • 井原様、米手様
          スエ7192ではないでしょうか。ドア上のえらくボッテリとした水切りからの推察です。これは昭和53年2月の撮影です。

        • スエ71 92は昭和53年4月に全検を受けていますから、全検直前にしてはたいへん綺麗ですね。天気が良いので綺麗に見えるのでしょうか。56年10月に西村さんのご案内で見に行った時は、特徴のある水切りは山型のものに替わっていましたね。56年3月の全検でなぜか取り替えられたようです。水はけが悪かったのでしょうか。その節は奥様にもお世話になりました。ありがとうございました。改造前はマニ76 5←オハ71 74←スハニ31 34だそうです。
          米手さんの言われる焼け電ではないようです。

          • 訂正いたします。
            水切りが山型になったのは、56年3月ではなく、53年4月の全般検査です。
            失礼いたしました。

  9. 総本家青信号特派員様
    DD51がこんなに人気がある機関車とは知りませんでした。皆さんと同じように古いネガを探していましたら若番号がありました。C60、D60、C57等を鳥栖機関区で撮った時についでにシャッター押したのでしょう。1964年4月2日撮影のDD5110です。それにしてもデジ青コメントに写真添付ができるようになりデジ青も少し活発化してきたような気がします。

    • 準特急様
      貴重なDD5110の写真、ありがとうございます。この機は、新製時の配属は鳥栖でしたが、直後に吹田一区に転属しています。鳥栖にいたのは1年ほどです。たいへん貴重です。2次車までの特徴である、白線がまっすぐに通っているのも、よく分かります。
      デジ青、コメント欄に写真投稿が出来るようになって、コメントを読む側にも楽しみが増えましたね。管理人の皆さんに感謝です。

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